積み上げるしかない
帳場で話しているところに、
さきちゃんが盆を抱えて戻ってきた。
一目で分かった。奥の男を見た瞬間、顔が強ばった。
「……なんで、ここにおるんですか」
声が、少しだけ震えていた。
男は何も言えず、もう一度、頭を下げた。
その様子を見て、今度は、のぶが奥から出てきた。
包丁を置いたままや。表情は、隠そうともしてへん。
「戻る話か」博之が、短く答える。
「違う」それだけで、のぶの眉が跳ね上がった。
「違うも何もあるか」「金、持って出たんやろ」
男が口を開こうとした瞬間、さきちゃんが先に言うた。
「正直に言います」私は、納得できません」
場の空気が、一気に張りつめる。「ここは、みんなで積み上げてきたんです」
「五縁の日も、味噌替えも、縁日も」「失敗も、文句も、一緒に受けてきました」
男は、黙って聞いている。
のぶが、低い声で続けた。
「俺らな、楽して回してるわけちゃう」「しんどい日も、売れん日も、
黙って鍋見てきた」博之は、二人を止めなかった。
これも、聞かせなあかん言葉や。
男が、やっと口を開いた。
「……すみません」
その一言が、余計に場を重くした。
博之が、そこで初めて言う。
「戻るのは、無理や」きっぱりとした声やった。
男が顔を上げる。目に、焦りが走る。
「理由は、金やない」「信頼や」
博之は続けた。
「今ここにおる連中はな、お前がおらん間も、
我慢して積み上げてきた」
さきちゃんが、うなずいた。「せやから」
博之は、ゆっくり言うた。「今すぐ戻ってきても、
誰も納得せえへん」男は、唇を噛んだ。
「……ほな、どうしたら」
博之は、少し考えてから答えた。
「外でやれ」「愚直にやれ」
のぶが、驚いた顔をする。
「一回、潰れてもええ」「仕入れ先とも、客とも、
一からやり直せ」さきちゃんが、静かに言葉を足した。
「それが“みそぎ”やと思います」
男の肩が、少し落ちた。
「その上でや」博之は、はっきり言うた。
「またどこかで、一緒にやる話が出るかもしれん」
「せやけどそれは、今ここにおる連中が、
“あいつならええ”って言うた時や」
男は、何も言えず、深く頭を下げた。
今度は、誰も止めなかった。
男が出ていったあと、しばらく誰も口を開かんかった。
やがて、のぶが言う。「……甘ないな」
博之は、鍋を見ながら答えた。「甘うしたら、全部壊れる」
さきちゃんは、小さく息を吐いた。「それでいいと思います」
鍋の湯気は、変わらず立っていた。
積み上げるいうのは、
戻すことやない。
続けることや。




