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値を下げられない理由・その先 ー独立した男の話ー


最初は、うまくいくと思っていた。

博之の店で見てきたやり方を、そのままやればええ。

鍋も同じ。具も同じ。味噌の配合も、だいたい覚えている。

値段だけ少し下げたら、人は来る。そう踏んでいた。

実際、最初の数日は人が来た。「安いな」「前の店と似てるな」

その声を聞くたびに、胸の奥が軽くなった。

ところが、仕入れに行って、違和感を覚えた。

味噌屋の親父が、いつもより口数が少ない。「今日は、これしか残ってへん」

そう言って出された味噌は、博之の店で使っていたものより、少し荒かった。

値段も、下がらん。

「もうちょい、まけてくれませんか」そう言うと、

親父は一瞬だけ手を止めて、「うちは、あそこみたいな量、取ってへんやろ」

とだけ言うた。八百屋でも同じやった。肉屋でも同じや。

どこも、現金払いをきっちり求めてくる。

掛けは利かん。おまけも出えへん。

後で聞いた。「博之のとこ、三軒まとめて仕入れとるからな」

「そら、値も変わるわ」それだけやない。

もう一つ、重たいもんがあった。

「博之の店、途中で飛び出したやつやろ」

「不義理した言うてたで」

そんな噂が、仕入れ先にも回っていた。

誰も面と向かって責めてはこん。せやけど、距離がある。

値切ろうとしても、話が先に進まん。

融通を頼んでも、首を横に振られる。

博之の店は、長い付き合いの中で、

黙っても回る関係を作ってきた。

こっちは、一回、筋を外れた人間や。

それでも、鍋は出さんとあかん。

値段を下げた。人は戻った。けど、戻ったのは

「安いから来る客」だけや。「今日は安いな」

「また安い日、来るわ」その一言一言が、胸に刺さった。

追い打ちをかけるように、

博之の店が五文下げた、という話を聞いた。

頭が真っ白になった。

あそこは下げられる。仕入れが違う。関係が違う。

信用が違う。こっちは、もう下げられへん。

下げたら、仕入れが払えん。下げなかったら、客が来ん。

値段しか武器がない店は、値段で詰む。

夜、鍋の前で一人になると、博之の声が、頭に浮かんだ。

「我慢できるかどうかや」あの時は、分かったつもりでおった。

今なら、はっきり分かる。我慢いうのは、

味を守ることやない。金を削ることやない。人との関係を、

時間かけて積むことや。それを、途中で放り出した。

値札を書き換えようとして、筆が止まった。

もう、下げられへん。鍋の底が見えた時、初めて思った。

——頭、下げるしかない。

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