耐える店、歪む店
値を五文下げてから、博之の店は変わらず回っていた。
爆発的に売れることもなければ、目に見えて落ちることもない。
朝になれば仕込みをし、昼になれば鍋が空き、夜には暖簾を下ろす。
その繰り返しや。せやけど、博之は気づいていた。
耐えているという感覚や。
前なら気にせんかった小さな揺れに、
今は一つ一つ、手応えを確かめている。
火を強めすぎてへんか。味噌を入れる間が早すぎへんか。
具の切り方が雑になってへんか。
値を下げた分、誤魔化しは効かん。少しの雑さが、そのまま伝わる。
それを博之は、分かっていた。
一方で、町の裏では、別の話が回り始めていた。
「裏の豚汁屋、最近あかんらしいな」「安いだけで、続かん言うてたで」
博之の耳に、その話が入ったのは、弁当売りの女の子からやった。
何気ない世間話のついでや。誰も、悪くは言わん。
ただ、困っている、という調子やった。
独立した男の店は、確かに安かった。値を下げ続けな、人が来ん。
せやけど、下げたら下げたで、次が詰まる。
仕入れは少ない。人も回らん。遊びもない。
博之の店が値を下げたことで、町の相場が、ほんの少しだけ下がった。
それが、致命傷になる店もある。
ある晩、博之は鍋を洗いながら、ふと手を止めた。
独立した男の顔が、頭に浮かんだ。必死やったやろな、と思う。
焦って、安くして、追い込まれて。
その時、博之の胸に、ほんの一瞬だけ、「ざまあみろ」
という感情が浮かんだ。
博之は、すぐにその考えを振り払った。
嫌なもんや。そう思った自分自身が、一番嫌やった。
「勝ち負けやない」
小さく、そう呟いた。
数日後、常連の一人が言うた。「こっちは、相変わらずやな」
それだけや。褒め言葉でもない。評価でもない。
けど、博之には分かった。比べられた結果の一言や。
耐えるというのは、前に出ることやない。下がらんことや。
その夜、博之は帳場で一人、帳面を見ていた。
数字は、派手やない。せやけど、崩れてへん。
商いは、こういうもんや。
そう、自分に言い聞かせた。




