我慢のきかん男
三軒目を任せてから、店の回りは悪くなかった。
立ち上がりとしては上々で、客も付いた。
味も崩れてへん。段取りも早い。帳場も回る。
それでも博之は、どこか引っかかりを感じていた。
小間遣いの男は、仕事はきっちりやる。返事もする。手も抜かん。
けど、以前みたいに味の相談をせんようになった。
仕込みの合間に、勝手に鍋を覗いては、何も言わずに戻る。
「今日はどうでした?」と聞いても、「まあまあです」とだけ返ってくる。
ある日、だしの取り方が微妙に変わっていた。味が悪いわけやない。
ただ、博之の知ってる味から、ほんの一歩だけ外れている。
「ここは前のままでええ」そう言うと、男は一瞬だけ口を結び、
「分かりました」とだけ答えた。目は、合わせへんかった。
帳場の金が合わんことに気づいたのは、その数日後や。
最初は博之が自分の勘定を疑った。歳か。気が抜けとるんか。
指を濡らして、もう一度数え直す。それでも、合わん。
次の日も、少しだけ足らん。大きな額やない。せやけど、三日続いた。
博之は帳面を閉じて、鍋の方を見た。湯気は、いつもどおり上がっている。
味も、売れ行きも、変わらん。変わったのは、人の目や。
翌朝、その男は来なかった。仕込みの時間になっても、姿がない。
使っていた包丁も、前掛けも、消えていた。
昼過ぎ、町で噂を聞いた。「裏の筋で、豚汁屋始めたらしいで」
「安いらしいわ」博之は、しばらく黙っていた。
怒りは、すぐには出てこんかった。悔しさも、あとからじわっと来た。
それより先に浮かんだのは、「止められたかもしれん」という考えや。
我慢させすぎたんか。任せすぎたんか。
それとも、最初からそういう男やったんか。
博之は鍋の前に立ち、火を弱めた。久しぶりに、自分で味を見る。
舌に残るのは、慣れた味や。それが、少しだけ重たく感じた。
「……行ったか」
声に出したあと、博之はそれ以上、何も言わんかった。
商いは、人がやるもんや。せやけど、人の腹の中までは、覗けへん。
暖簾を下ろす頃、博之は思った。味は教えられても、
我慢だけは、教えられへん。




