はぶりの悪い旦那の噂
噂は、直接には届かへん。
いつも、端っこから回ってくる。
昼の仕込みが一段落した頃、
弁当売りの女の子が、帳場の前でぽつりと言うた。
「……この前、縁日で聞いた話なんですけど」
博之は、手を止めずに聞く。
「向こう筋の店の旦那が」
「はぶり、悪いらしいです」
「はぶりが?」
「はい」「金がない、いう話やないんですけど」
その言い方で、だいたい察しはつく。
「釜の前でな」「値段の話ばっかりするらしくて」
「一杯出すたびに」「それ、原価いくらや、とか」
博之は、黙ったまま。
「縁日の汁も」「半分は俺が口持つ言うて」
「あとで、細かい勘定、言い出したとか」
誰も笑わへん。ただ、空気が重くなる。
「別に、間違ってへんのかもしれませんけど」
女の子は言葉を選ぶ。「……一緒におりにくい、言うてました」
博之は、ふうっと息を吐いた。
金を出してないわけやない。
せやけど、金の話が前に出る。
それだけで、町では“はぶりが悪い”になる。
「それでな」もう一人が続ける。
「最近、下働きが続かへんらしいです」
「給金は?」「悪ないみたいです」
「でも、細かい決まりが多くて」
「飯も、奢らんとか」
博之は、ようやく顔を上げる。
「……なるほどな」
噂は、容赦がない。せやけど、嘘は少ない。
「金があるかどうかやない」博之は、独り言のように言う。
「金を、どこで止めるかや」
誰も、否定せえへん。
「その旦那な」女の子が、最後に言う。
「客からも、ちょっと距離置かれてるみたいです」
「味は、ええらしいですけど」
博之は、帳面を閉じた。
味がええだけやったら、飯屋は続く。
せやけど、町では続かへん。
はぶりが悪いいう噂は、貧乏の噂やない。
場を冷やす人の噂や。
その夜、博之は、鍋の前で少しだけ多めに具を入れた。
誰に見せるでもない。せやけど、止めへんように。
金も、縁も、空気も。
止めた瞬間、噂になる。
博之は、それをよう知っていた。




