鯖の味噌煮という一皿
その話は、夜の仕込みが終わった頃に出た。
「正月に出した、鯖の味噌煮な」
博之が、鍋の縁を布で拭きながら言う。
「……あれ、メニューに入れてみよう思てる」
のぶが顔を上げる。「ほんまに?」
「ただし」博之は指を一本立てた。「様子見や」
鯖は、安くはない。イワシほど気軽でもない。
せやけど、食い応えがある。
「仕入れは、だいたい五十文」「売りは、百文」
「倍やな」「倍や」「せやけど、毎日は出さん」
限定、各店五つ。一日、十食だけ。
「そんな売れますかね」
下働きの子が、ぽつりと言う。
博之は首を振る。「売れんでええ」
「え?」「今日は、ちょっと頑張ったな」
「今日は、ええもん食いたいな」
そう思う日が、人にはある。
「その時に、ふと思い出してもらえたらええ」
百文は、安ない。せやけど、高すぎもせん。
弁当や汁で腹を満たした後、
もう一皿、行くかどうか迷う値。
「試しや」博之は言う。
「これが回るかどうかで、次が決まる」
「弁当に入れるとかは?」
のぶが聞く。「まだやな」
博之は即答した。「弁当は、日常や」
「鯖は、まだ非日常や」
だし巻き卵に付ける。
頭の中では、もう形は見えてる。
せやけど――今やない。
「焦ると、味が雑になる」
鯖は、味噌で日持ちする。
火入れも、多少の誤差は吸収してくれる。
それでも、“特別感”が消えた瞬間、ただの高いおかずになる。
「まずは、店で」「五つだけ」その夜、短い紙が貼られた。
――本日鯖の味噌煮百文
※各店五つ限り
最初は、誰も頼まん。
「売れへんな」「想定内や」
しばらくして、常連が一人、札を指で叩く。
「これ、今日だけ?」「はい」
「……ほな、一つ」
鍋から出した鯖は、湯気を立てて、味噌の匂いを広げる。
一口。黙る。
「……ええな」
それ以上、言わへん。せやけど、帰り際に、こう言うた。
「また、頑張った日に食うわ」
博之は、帳場でそれを聞きながら、心の中でうなずいた。
(この一言が出たら、合格や)
その日は、三つ売れた。五つは出えへん。それでええ。
鯖の味噌煮は、まだ様子見。まだ切り札未満。
せやけど――ちゃんと、店の中に居場所を作り始めていた。




