手習いの日
3軒目の話が、現実味を帯びてきた頃やった。
帳場で帳面を閉じながら、博之が言う。
「人、足らんな」のぶは、すぐにうなずいた。
「小間使い、もう一人二人は欲しいですね」「せやけど」
博之は、そこに線を引く。「いきなり店は任されへん」
二人とも、分かっとる。鍋は、慣れや。味は、積み重ねや。
せやけど、場を回すのは、また別や。
「せやからな」博之は、ぽつりと言う。
「手習いの日、作ろう」
月に数回。あらかじめ暖簾に掲げる。手習いの日。
「材料はな」「形の悪い野菜、端物」
「原価は落とす」「その代わり、全部三十文」
鶏汁も豚汁も三十文。弁当は、弁当とだし巻き卵を合わせて三十文。
「これで一回、回してみ」「鍋も、弁当も、段取りも」「全部や」
その日は、いつもより客が多かった。安さもある。
“手習い”という言葉に、興味もある。
せやけど――食べ慣れた客ほど、黙らへん。
「……卵、だし効きすぎやな」「形はしゃあないけど」
「火、ちょっと急ぎすぎちゃうか」
具の切り方。味の乗り方。火の回り。
「今日は手習いの日なんで」博之は、頭を下げる。
「すんません」
客は言う。
「分かっとる」「分かっとるけどな」
「これやったら、普通の日に来たかったわ」
その言葉が、一番効いた。
鍋を任されていた小間使いの料理人は、
黙って立っとった。顔に、出とる。
悔しさと、情けなさ。
片付けが終わったあと、
博之は、何も責めへん。
「今日はな」「失敗や」
一拍置いて。
「せやけど」「分かったやろ」
のぶが続ける。
「安くしたら、許されるわけやない」
「味を落としたら、すぐ分かる」
博之は、料理人を見る。
「これで合格出せるようになったらな」
「店、任せてもええ」
その一言で、料理人の目が変わった。
へこんだままやない。
次を考えとる目や。
「もう一回、やらせてください」
声は低いけど、はっきりしとる。
博之は、うなずいた。
「それでええ」
手習いの日は、
安売りの日やない。
覚悟を見せる日や。
暖簾の奥で、
次の鍋の音が、静かに立ち始めていた。




