帰る種
五縁の日と味噌替えの日を回し始めて、二ヶ月が過ぎた。
店は忙しすぎず、暇すぎず。
同じ顔が、同じ時間に来るようになった。
「今日はどっちや」「味噌替えやで」
そんなやりとりが、当たり前になりつつあった。
その日の片付けが終わったあと、
帳場の端で、三井から来ていた小間使いが立っていた。
手を止め、少し言いにくそうに口を開く。
「……そろそろ、本家に戻ろうと思います」
博之は、驚かへん。「せやろな」
小間使いは、少し笑った。「正直なところ」
「まだ、ここにおりたい気もします」
鍋を回し、給仕の動きを見て、
五縁の日の空気を吸い、
味噌替えの日に客と話した。
それが、思った以上に楽しかったのやろ。
奥からユキが出てきて言った。
「ほな、このままここで働くか?」
冗談とも本気とも取れる言い方やった。
小間使いは、慌てて首を振る。
「いやいやいや」「それは違います」
「ここで見たこと」「ここで聞いた話」
「それを、三井に持って帰るんです」
博之は、黙って聞く。
「売り方やない」「安くする話でもない」
「日を動かす、っていう考え方です」
「五縁の日」「味噌替えの日」
「ああいうのは、帳面には出ませんけど」
「人の口に残る」
ユキが、ふっと笑った。「ええ刺激やったか」
「はい」小間使いは、はっきり言った。
「商いの種を考える材料になりました」
「本家に戻って、いろんな人と話してみます」
その背中を見ながら、博之は思った。――下働きに出した甲斐は、あったな。
鍋を覚えさせるためやない。
人を育てるためでもない。
外に持ち帰らせるためや。
帰り際、小間使いが振り返った。
「この店のこと」「三井の中でも、話になりますよ」
博之は、軽く手を上げただけやった。
暖簾が閉まり、夜が静かになる。ユキが言う。
「評判、気になるか」「少しな」
博之は正直に答えた。
「どんな風に伝わるかは、分からん」「せやけど」
ユキは言う。「悪うは転ばん」
博之は、帳面を閉じた。
五縁の日。味噌替えの日。
二ヶ月分の積み重ね。
派手な数字はない。せやけど、人は動き、話は外へ出ていく。
路地裏の灯りは、まだ二つ。
せやけど、
その灯りは、三井の奥の方まで、
静かに届き始めていた。




