味噌替えの日
五縁の日を一ヶ月やってみて、店の空気が少し変わった。
客が増えたわけやない。せやけど、話が増えた。
「次は何やるん?」そんな言葉が、ぽつぽつ出るようになった。
帳場で湯をすすりながら、博之は考えた。――次は、味やな。
翌日、味噌の卸に顔を出した。伊勢に近い土地柄、今までの味噌は
決まっとる。赤でも白でもない、合わせの味。
癖はない。せやけど、外さん。
「最近な」博之が言う。「質のええ味噌で、なんかおもろいもんないか」
卸の親父は、鼻で笑った。「お前も、贅沢言うようになったな」「違う」
「遊びや」親父は、少し考えてから言った。
「全国にはな、味噌だけで旅ができるくらいある」
棚の奥から、小さな樽を指さす。「まずは、新しめのやつから試せ」
「“新種”言うてもええ味噌や」
「たとえば?」博之が聞く。
「信州やな」親父は、にやっと笑う。
「善光寺のあたりや」「寒い土地で、発酵がゆっくりや」
「塩が立たん」「汁にすると、輪郭がはっきり出る」
博之は、うなずいた。
「話も、つくな」「味噌はな」
親父が続ける。
「語れる方がええ」
「舌だけやなく、頭も動く」
結局、いつもの味噌に加えて、
信州味噌を一樽だけ仕入れた。
店に戻り、のぶとさきちゃんを呼ぶ。
「味噌替えの日、やる」
「十日に一回」
のぶが聞き返す。
「五縁の日とは別ですか」
「別や」「これは、遊びの日」
博之は続ける。「今日は、いつもの味噌と」
「今日は、違う味噌」「どこの味噌かは、言わん」
「当ててもろう」
さきちゃんが笑う。「外れたら?」
「外れてええ」「話が生まれたら勝ちや」
最初の味噌替えの日は、静かに始まった。
張り紙は、小さく一枚。
《本日 味噌替えの日》
「なんやそれ」
そう言いながら、客が汁をすすって、首をかしげる。
「……いつもと、ちゃうな」「甘い?」
「いや、後が軽い」
博之は、黙って聞く。
隣の客が言う。
「信州ちゃうか」「前に食うたことある」「ほう」
博之が、初めて口を開く。
「なんでそう思う」
「寒い土地の味や」
「出しゃばらん」
店の中で、笑いが起きた。
十日後。
味噌は、二軒目に回した。
「こっちは、少し尖っとるな」
「一軒目の方が、丸い」
そんな会話が、自然に出る。
三回目になると、客の舌が変わった。
「今日は、前より色が薄い」「香り、立っとる」「豚に合うな」
博之は、鍋を見ながら思う。
――育っとるな。味噌替えの日は、
安い日でも、特別な日でもない。話す日やった。
帳面には、派手な数字は残らん。
せやけど、「今日は味噌替えやろ」
そう言うて来る客が、確実に増えた。
のぶが、ぽつりと言った。
「この店、客も一緒に仕上がってきてますね」
博之は、うなずいた。
「せや」「味を育ててるんやない」
「舌を育てとる」
路地裏の灯りは、今日も静かや。
せやけど、鍋の中では、
伊勢から信州へ、
味噌が旅を始めていた。




