固定費を背負わん商い
夜の客が引いたあと、
鍋の火だけが静かに残っていた。
博之は帳場に腰を下ろし、
湯をすすりながら言った。
「正直な話な」
「俺、手持ちあらへん」
ユキも、三井の小間使いも、黙ってうなずく。
「せやからな」
「何するにしても、固定費がかからん商いがええねん」
「家賃増やすとか、人増やすとか、道具買い足すとか――
そういうのは、今はちゃう」
小間使いが静かに聞いている。
博之は、少し考えてから続けた。
「飯屋やから、来てくれる人数は操作できる」
「たとえば」
「何人かで来てくれたら、一人分は無料にする」
ユキが笑う。
「太っ腹やな」
「太っ腹ちゃう」
博之は首を振った。
「回転上がるし、満足度も上がる」
「一人分の原価なんて、知れてる」
「でも、“また来よか”は残る」
博之は鍋を指さした。
「それに、試食や」
「だし巻き卵とか、味噌田楽とか」
「ちょっと食わせて、弁当を買ってもらう」
「厨房も、手間も、今のままでできる」
小間使いが感心したように言う。
「固定費ゼロですね」
「せや」
博之はうなずいた。
少し間があって、博之は苦笑いした。
「団子屋とかやったら、話は簡単なんやろな」
「原価低いし、持ち帰り前提やし」
「せやけど、俺は飯屋や」
「やれることを、やるしかない」
ユキは、その言葉を聞いて言った。
「博之、あんた自分の首、ちゃんと掴んでるな」
小間使いが、ぽつりと言った。
「三井の商いは、先に固定費を積みます」
「人、場所、仕組み」
「だから、身軽さはない」
博之は即答した。
「俺は、重たいの背負われへん」
「せやけどな」
少しだけ声を落とす。
「身軽やから、試せる」
「失敗しても、火止めたら終い」
その言葉に、
ユキが静かにうなずいた。
鍋の中で、
出汁が小さく揺れた。
博之はそれを見ながら言った。
「金があったら、考えへん商売や」
「せやけど、今の俺には、これが一番おもろい」
三人の間に、
静かな納得が落ちた。
細路地の商いは、
今日も固定費を背負わず、
静かに続いていく。




