名の話 ――呼び名と立ち位置
帳面を閉じてから、博之は一つ、言い直した。
「なあ」「これからは、ちゃんと金払う話や」
「いつまでも“小間遣い”やと、具合悪い」
少し間を置く。「名前で呼ばせてくれ」
男は、一瞬だけ驚いた顔をしてから言った。
「……のぶ、です」「信」
「俺のことは、のぶと呼んでください」
博之は、小さく頷いた。「分かった、のぶ」
それから、話を戻す。
「年十両もろてた話、聞いた」
「正直、今すぐ同じ額は出せん」
のぶは、黙って聞いている。
「せやけどな」
「当面、月で一両くらいを目安にしたらどうや」
「基本給は固定で出す」「それに」
指を一本立てる。「弁当」
「売れた数の半分をのぶに入れる」
「今の売れ行きなら、それで年十両くらいになるやろ」
「出来高みたいなもんや」
のぶは、少し考えてから言った。
「……やれます」
「数字が見える方が、ありがたいです」
博之は、そこで聞いた。
「なあ、のぶ」
「改めて聞くけど」
「なんで、うちなんや」
のぶは、迷わず答えた。
「単価が高いです」
博之は、
眉を上げた。
「食材を、惜しんでない」
「その分、味が決まる」
「それで」
「さっき聞いた三ヶ月の残り」
「普通の店やったら、ありえません」
「こんだけ利が取れる商売、なかなかないです」
博之は、鼻で笑った。
「よう見とるな」
「そこを、学びたいです」
「飯がうまくて、ちゃんと儲かる」
「そういう商売を覚えたい」
その話は、そこで一度終わった。
翌日。
昼の山を越えた頃、暖簾がめくられた。
「おう」見覚えのある顔。
「……あ」博之は、すぐに頭を下げた。
「今までは三井の方とは知らず」
男は、手を振った。
「いやいや」
「松坂で拾うた時に言うときゃ
よかったんやけどな」
博之は、少し笑って言った。
「ちょっと話してくれてもよかったじゃないですか」
男は、鼻で笑った。「松坂は三井の地やろ」
「そんなとこで三井の名前出したら、
めんどくさくてしゃあない」
「どこ行っても話が広がる」
「噂は立つ」「余計な目も向く」
博之は、なるほど、という顔をした。
「それにや」男は続ける。
「お前、全然聞いてこーへん」
「名前も、素性も」
「俺もそのうち言うつもりやったけど」
「そのままズルズル忘れてもうてな」
博之は、苦笑した。
「確かに」「今さら聞く間もなくて」
「そのままでしたわ」
男は、楽しそうに笑った。
「せやろ」「もうな」「三井言う名前、
出されるんも正直飽きてん」
「どこ行っても別格扱いや」
「それも、そろそろしんどい」
少し声を落とす。
「俺はな」「うまいもん探したり」
「面白い奴探したり」
「それやっとる時が一番楽しい」
「せやから」
博之を見る。
「これからも三井は出さんでええ」
「適当に“ユキ”で呼んでくれ」
「その方が気楽や」
博之は、少し間を置いて答えた。
「分かりました」
「ユキさん、で」
ユキは、満足そうに頷いた。
そのまま、のぶの方を向く。
「お前が信か」
「三井抜けて、こっち来るんやな」
「頑張れよ」
のぶは、深く頭を下げた。
「ここの店な」
「とにかく単価が高い」
「味さえ決まれば、めちゃくちゃ儲かる」
「見た目も悪くない」
「三井を捨てた言うたら大げさやけど」
「三井でやっていくんも、正直しんどい」
「人間関係も、複雑や」
ユキは、博之をちらりと見た。
「ここで高単価の店を回す」
「それは、すげえ経験や」
「何なら」のぶに向き直る。
「実質、2番手や」
「独立とは違うけど」
「その立ち位置、ありやで」
「商売考えて、広げていくのも面白いやろ」
のぶは、強く頷いた。
博之は、鍋を見た。
火は、ちょうどいい。
名前が決まり、金の形が決まり、
立ち位置も見えた。
店はもう、一人のもんや
なくなっていた。
今日は、その線が
静かに引かれた日やった。




