金と腹 ――三井の名
夜の仕込みが終わり、店に音がなくなった頃。
博之は帳面を広げ、小間遣いに向かって言った。
「先に、数字の話や」帳面を指でなぞる。
「この店始めて、三月や」
「鶏汁と豚汁、一日四十杯」
「弁当、十」
「全部足して、三月で二十六万文ほど回した」
小間遣いは、静かに頷く。
「原価三割」
「家賃と住まいで、三月で二十両ほど出た」
「残りが、四十両ちょい」
帳面を閉じる。
「今、手元にあるんは、そのくらいや」
小間遣いは、
思っていたより多かったのか、
一瞬だけ目を動かした。
「でな」博之は、話を切り替えた。
「お前、前のとこでいくらもろとった」
小間遣いは、一拍置いてから答えた。
「年で、十両です」
博之は、一瞬、間が抜けた。「……十?」
「どこの豪商やねん、それは」
小間遣いは、少し困ったように言った。
「三井です」博之の眉が、わずかに動く。
「……三井?」一拍置いてから、聞き返す。
「ほなな」「前に来とったやろ」
「鍋の前まで見に来てたあのおじさん」
「あれ、誰や思とった?」
「俺を拾ってきた、あの人は?」
小間遣いは、
少し言いづらそうにしてから答えた。
「三井高之さんです」
博之は、天井を見た。
「……まじかいな」
それから、小さく笑った。
「いや待て」「俺、何も知らんと色々話してたんか」
小間遣いも、つられて笑う。
「そうなりますね」
博之は、肩をすくめた。「しゃあないやろ」
「ボロボロで来よったし」
「最初、名前聞く気にもならんかった」
「今さら聞く間もなくて」
「そのままズルズルや」
少し間を置いて、話を戻す。
「せやけどな」「三井言うたら」
「どこ行っても扱いはええ」
「そのままおったらええやん」
小間遣いは、首を横に振った。
「それは、違います」
声は、静かだが迷いがない。
「三井は、確かにすごいです」
「けど」「今の仕事の方が、楽しいです」
博之は、黙って聞く。
「ここやと」
「弁当も回せる」
「数字も見える」
「失敗したら、その場で分かる」
「商売してる感じが、あります」
博之は、小さく息を吐いた。
「……変な奴やな」
そう言いながら、
どこか嬉しそうやった。
「三井捨てて、端っこの鍋選ぶか」
小間遣いは、少しだけ笑った。
「今は、それが一番やと思ってます」
帳面を閉じる。
「ほな」
「三井の名前は、しばらく封印や」
「ここでは」
「鍋と弁当で、勝負せえ」
博之は、そう言って立ち上がった。
「楽しい言う間は、やらせる」
「楽しくなくなったら、また話そう」
夜の店に、静けさが戻る。
博之は、心の中で思った。
三井の看板を下ろしてでも来る。
それは、逃げやない。
選び直しや。
今日は、その重さを
知った夜やった。




