人の話 ――任せるということ
夕の仕込みが、ひと通り終わった頃だった。
暖簾が、静かにめくられる。
「おう」豪商の遠縁にあたる男だった。
「少し、話してええか」「どうぞ」
博之は、鍋の火を確かめてから答えた。
鶏汁。豚汁。
今日は、どちらも大きく外れていない。
男は腰を下ろし、椀を受け取る。
一口。二口。
何も言わず、置いた。
「荒れてへんな」「はい」
「せやからや」男は、視線を上げた。
「今日は、人の話やろ」
博之は、一拍置いてから口を開いた。
「小間遣いに、次の店を任せる話です」
男が、わずかに動く。
「任せる、やな」「独立やないな」
「はい」博之は、はっきり言った。
「支店です」
「看板も、型も、うちのまま」
「一人で背負わせる話やありません」
男は、頷いた。「そこは、最初に
はっきりさせとかなあかん」
博之は、続ける。
「弁当は、もう回せます」
「数も原価も、段取りも見えています」
「ただ」鍋を見る。
「鶏汁と豚汁の味の線が、まだ定まりきっていません」
「火は入る」
「崩れもしない」
「せやけど、“これや”いう一点がまだ体に入っとらん」
男は、黙って聞いている。
「せやから」
「もうしばらく、俺の下で教え込みます」
「味が揃ってから、店を任せたい」
言い切ってから、博之は一度、言葉を切った。
「ただ」「一つ、確認されるやろうと思ってました」
男が、視線を強める。「……分かっとるな」
「その子はな」
「もう、豪商の下には戻らん」
博之は、頷いた。はい」「戻しません」「うちで抱えます」
男は、畳みかけるように言う。「それはな」
「“働き先”が変わるいうことや」
「修行先やない」
「これからは、お前の人間や」
「給金も、面倒も、責任も」
「全部、お前持ちや」
博之は、一拍も置かずに答えた。
「分かっています」「それを承知での話です」
男は、博之の顔を見る。逃げも、迷いもない。
「本人には、そこまで話したんか」
「はい」「独立やない」「せやけど、甘えは効かん」
「戻る場所も、最初から用意せん」
「それでもええかと聞きました」
「で?」「分かるまでここで働きたいと言いました」
男は、小さく息を吐いた。「……腹はできとるな」
少し間を置いて、静かに言う。
「豪商としては、止めへん」「筋は、通っとる」
「独立やない」「支店や」「任せるが、切り離さん」
「その形なら、問題ない」
博之は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」男は、立ち上がる。
「一つだけや」暖簾の前で、振り返る。
「味が揃った時点で、もう一回話を持ってこい」
「その時は、“任せる前提”で聞く」
「はい」暖簾が戻る。店に、いつもの音が戻る。
博之は、鍋を見た。教える段や。抱える段でもある。
逃がさん代わりに、守る。給金も、責任も。今日は、その覚悟を
通した日やった。




