人の腹 ――残るか、戻るか
夜の仕込みが、一段落した頃だった。
客は、もういない。
鍋の火は、落とさず、弱めに残してある。
博之は、帳面を閉じてから言った。「座れ」
小間遣いは、一瞬きょとんとしてから、
言われた通り腰を下ろした。
「今日は、叱る話やない」
そう前置きしてから、博之は続ける。「確認や」
小間遣いは、黙って頷いた。
「弁当は、回せとるな」「はい」
「数も、原価も、段取りも」
「……はい」
「それは、もう任せられる」
小間遣いは、少しだけ肩の力を抜いた。
「せやけど」博之は、鍋の方を見た。
「豚汁、鶏汁や」小間遣いは、視線を鍋に移す。
「火は、ちゃんと入れとる」
「逃げてもない」
「強すぎることも、弱すぎることもない」
「そこは、もう出来とる」
小間遣いは、少し驚いた顔をした。
「ただな」博之は、言葉を選ぶ。
「味の決まり所が、まだ掴めとらん」
「豚汁は、もう一歩欲しい」
「鶏汁は、日によって振れる」
小間遣いは、黙って聞いている。
「火やない」「鍋の感覚や」
「“この辺”いう線が、まだ体に入っとらん」
少し沈黙が落ちる。
博之は、そこで本題に入った。
「聞くで」「お前はな」
「この先、どうしたい」
小間遣いが、顔を上げる。
「俺の下で、もう少し覚えるか」
「それとも」言葉を区切る。
「豪商に戻って、別の段取りに回るか」
小間遣いは、すぐには答えなかった。
手を、膝の上で組み直す。
「……正直に、言うてええですか」
「ええ」「弁当屋を回すんは、楽しいです」
「数が見える」「終わりも、先も読める」
博之は、何も言わない。「でも」
小間遣いは、続けた。
「鍋は、まだ“分かった”とは言えません」
「出来る日と、首ひねる日がある」
「自分でも、理由がはっきりせん」
博之は、静かに言った。「正直やな」
小間遣いは、一度、息を吸う。
「戻りたいとは、思ってません」
博之は、目を細めた。
「せやけど」
「今すぐ、一人で店を持ちたいとも思ってません」
迷いのない声だった。
「ここで、もう少し鍋を見たい」
「弁当を回しながら、土日に鍋を触って」
「味の線が、体に入るまで」
「その時に、改めて考えたいです」
博之は、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「それでええ」小間遣いが、顔を上げる。
「今、決める必要はない」
「決めたフリする方が、後でズレる」
博之は、鍋を見た。
「逃げたい言うたら、止めへん」
「行きたい言うたら、段取り考える」「けどな」
視線を戻す。
「分からんまま背負うのが、一番きつい」
「今日は、腹を聞いただけや」
小間遣いは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……もう一回、鍋、見てもええですか」
博之は、少しだけ笑った。
「ええで」「今日は、味を見る日や」火は、もう出来とる。
「線を、覚えるだけや」夜。
帳面には、何も書かない。
ただ、一つだけ確かめた。
――分かるまで、残る。
それが聞けただけで、
今日は十分やった。




