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五十五文の外側 ――値段を外した日

たかが、豚汁と鶏汁だろ。

そう思ったのは、

帳場でそろばんを弾いたときだった。

向こうの店は、一杯五十五文。安くはない。

それでも、昼も夕も、椀が切れない。

「汁物で、五十五文か」

材料は知れている。段取りも、見ていれば分かる。

「……うちなら、三十五文で出せるな」

本気じゃなかった。試しだ。

空いている鍋に、鶏を入れた。

味は、そこそこ。値は、三十五文。

向こうより、二十文安い。

「これなら、一回は来るやろ」

初日。出た。二十杯ほど。

「悪くない」

 二日目。また出た。

 三日目。昼も夕も、そこそこ動いた。

「……いけるか?」

 四日目。

 昼。椀が、残った。

「……あれ?」

 夕。

 声をかけても、通らない。

「向こう行くわ」三十五文。

 安いはずだった。だが――

 客の顔が、止まらない。

 一杯目は、悪くない。だが、二杯目が出ない。

 軽くない。重すぎる。

 腹に残るが、満足が残らない。

「……五十五文の味を、三十五文で出そうとしてたな」

そう思って、値を下げた。三十文。

原価は、ギリギリ。だが、戻ると思った。

 ――戻らなかった。

「前より安いな」

 そう言われて、通り過ぎられる。

 三十文は、理由にならない。

 三十五文は、期待を呼ぶ。

 だが、どちらも応えられなかった。

 板場が言った。

「これ、五十五文の味を目指してます?」

 答えられなかった。

 向こうは、

 最初から

 五十五文で決めている。

 味も。量も。回転も。

 だから、客は迷わない。

 うちは、迷った。

 その迷いが、汁に出た。

 数日後。

 張り紙を出した。

『鶏汁、しばらく休みます』

 “しばらく”は、戻らない言葉だった。

 夕方。

 暖簾を下ろしてから、外に出た。

 腹が減ったわけじゃない。

 理由は、分かっていた。向こうの店は、

 まだ開いている。

 一列八卓。

 静かだが、切れていない。

 少し迷ってから、入った。

「一杯」五十五文。椀が出る。匂いで、もう分かった。

 一口。軽い。

 二口。腹に落ちる。

 三口。舌に残らない。

 派手じゃない。

 だが、五十五文から逃げていない味だった。

 そこで、ようやく分かった。

 三十五文は、逃げの値だ。

 三十文は、諦めの値だ。

 五十五文は、覚悟の値だ。

 向こうは、最初から覚悟で売っている。

 俺は、試しで出した。

 だから、続かなかった。

 椀を置き、銭を払う。

 博之は、何も言わず、頭を下げた。

 外に出ると、

 湯気が上がっていた。

 三十五文で始めた鍋。

 三十文で終わった鍋。

 五十五文の鍋は、

 今日も同じだ。

 値段も、味も、動いていない。

 たかが汁物。そう言えるのは、

 五十五文を守りきった側だけだ。

 俺は、そこまで行けなかった。

 それだけの話だった。

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