鍋の外側 ――教えるという重さ
朝、店を開ける前から違いはあった。
駒使いの男は、言われる前に動く。
水を汲む。薪を割る。椀を並べる。
一列八卓。これまで、博之一人で見ていた。
男が一人増えただけで、息が詰まらなくなった。
「助かります」 博之がそう言うと、男は軽く頭を下げた。
「鍋は?」 「触らなくていい」 「……分かりました」
その返事に、余計な色はなかった。
昼の二十杯。夕の二十杯。動きは滑らかだった。
客が立つと、次の椀がすぐ置かれる。博之は、鍋に集中できた。
帳面を開く。いつもの売上。だが、視線が自然と横に逸れる。五両。
包みは、まだ減っていない。博之は、初めて考えた。
―人を使うということは。これまでは、残った銭は、すべて自分のものだった。
だが今は違う。この男の飯。この男の宿。いずれは、手間賃。
「……人件費、か」口に出して、少し苦く笑った。儲けは、減る。
だが―― 店は、回る。夜。片付けが終わったあと、男が声をかけてきた。
「……教えてもらえませんか」博之は、手を止めた。「何を」「味です」
真っ直ぐな目だった。 「今日の鶏。あれ、真似しようとして、できませんでした」
博之は、すぐに答えられなかった。教える。それは、鍋を渡すことと同じだ。
「俺は、誰かの代わりになりたくてやってるわけじゃない」
男は、黙って聞いている。「でも」博之は、少し考えた。「全部は、教えない」
男の目が、わずかに動いた。「火の見方は、教える」「匂いの変わり目も」「だが」
一拍置く。 「鍋は、まだ触らせない」男は、深く頭を下げた。「それで、十分です」
博之は、鍋を見た。味は、守る。だが、守るために閉じるだけでは、先に進めない。
五両は、ただの銭じゃない。考える時間を買った金だ。そう思えた。鍋は、一つ。
だが、見る目は、二つになった。博之は、少しだけ先を見た。
――教えるという仕事が、 始まっている。




