駒を一つ ――五両の意味
夕方の客が引いたあと、男はまた暖簾をくぐった。
今日は、いつもより遅い。
博之は、鍋を見ながら言った。「今日は、もう終いです」
「構わん」
男は、椀を指さした。
「豚でいい」
七十文。
やはり、値は聞かない。
一口飲み、男は箸を置いた。
「四十杯で、止めているな」
「はい」
「増やせば、もっと出る」
「出ます」
「だが、増やさない」
博之は、頷いた。
男は、そこで初めて本題に入った。
「一人、つける」
唐突だった。
「……人、ですか」
「ああ。駒使いだ」
博之は、少し考えた。
呼び込み。
洗い。
仕込みの補助。
欲しい場面は、いくらでもある。
だが――
「鍋は、触らせません」
即答だった。
男は、にやりと笑った。
「当然だ」
「目的は、広げることじゃない」
男は、低い声で言う。
「蓄える」
博之は、顔を上げた。
「店の回り方。値の置き方。客の残り方」
一つずつ、指を折る。
「それを、人に伝えられる形にする」
男は、懐から包みを出した。
机に置く。
五両。
博之の視線が、一瞬、止まる。
「前金だ」
「……投資、ですか」
「違う」
男は、すぐに否定した。
「手間賃だ」
「駒を育てる手間。店を崩さず回す手間」
一拍置く。
「失敗しても、返せとは言わん」
博之は、黙った。
「ただし」
男の声が、少しだけ強くなる。
「増やすな」
「鍋も、人も」
「五両で、もう一人分の手を作れ」
博之は、深く息を吸った。
「……力を、蓄えます」
「それでいい」
その夜、駒使いの若い男が連れてこられた。
口数は少ない。
目は、よく動く。
「名前は、要りません」
男が言う。
「ここでは、博之のやり方を覚えろ」
若い男は、黙って頭を下げた。
五両は、まだ使わない。
博之は、帳面の横に包みを置いた。
これは、
儲けではない。
期待でもない。
時間だ。
鍋は、二つ。
手は、二人。
だが、
判断は、一つ。
博之は、そう決めた。
ここで、
店と人を育てる。
その先は――
まだ、見なくていい。




