下働きがそれをしたことのない古参衆に文句を言うが黙らせる。
下働きは、正直しんどい。
水を汲み、床を拭き、薪を割り、鍋の底を磨く。
味も見られへん。客の顔も遠い。
そんな中で、のぶやさきちゃんが、ふっと声をかける。
「今日はえらかったな」
そう言って、小さなおだちんを渡したり、甘いもんを一つ差し出したりする。
それだけで、救われる瞬間がある。
ああ、見てくれてるんやな。
ちゃんと数に入れてくれてるんやな、と。
せやけど、全員が素直に受け取れるわけやない。
「……なんか、ずるないですか」
ある日、ぽつりとそんな声が出た。
「昔からおった人らって、こんな下働き、なかったんでしょ」
「今の俺らだけ、きつい気がする」
場の空気が、少し張る。
そのとき、古参が口を開いた。
声は低く、感情は乗せへん。
「1軒、2軒しかなかった頃の話、知ってるか」
誰も答えへん。「鍋も、帳面も、全部手探りや」
「正解なんか、どこにもなかった」
続けて、のぶが言う。「俺が来た頃な」
「ここ、まだ一軒だけやった」
皆がのぶを見る。のぶは、淡々と話す。
「三井から出てきたんは事実や」
「せやけど、保証なんか、何もなかった」
安定した道を捨てて、
名前も通ってへん店に来る。
それは、賭けや。「人生を張る賭けや」
のぶは、はっきり言うた。
「それをな」「一軒しかない時に、できるか」
言葉が、重く落ちる。
「人気出てから来るのは、楽や」
「勝ち馬に乗る、いうやつや」
悪いことやない。誰でも、そうしたい。
「でもな」古参が引き取る。
「誰からも見向きされへん時に」
「相手を信じて、ついて行くのは、全然ちゃう」
不安しかない。逃げ道もない。
それでも、踏み出す。
「それができる人間は、少ない」
しんと、静かになる。
さきちゃんが、最後に言った。
「今の下働きが、しんどいのは分かる」
「でもな、今は“道”が見えてる」
店はある。役割もある。次に行く段も、見えている。
「私らの頃は、何もなかった」
「あるのは、人だけ」
それを聞いて、さっき不満を言った者が、視線を落とした。
「……確かに」誰かが小さく言う。
人気が出てから人が集まる。
それ自体は、悪やない。
せやけど、それは“結果”や。
その結果が出るまで、
誰が、何を賭けてきたか。
それを知れば、
軽々しく「ずるい」とは言えへん。
のぶは、最後に付け加えた。
「今、お前らが下働きしてる間に」
「次の店も、次の役も、ちゃんと用意されとる」
「せやから」「辞めるなら、今でもええ」
「残るなら、腹括れ」それ以上は言わん。
しばらくして、誰も何も言わず、また仕事に戻った。
音だけが、場に戻る。
下働きは、急には楽にならへん。
せやけど、意味は見えた。
そしてそれだけで、
人は、もう少しだけ踏ん張れる。
博之は、少し離れたところで、その様子を見ていた。
自分が出る幕は、なかった。
そういう時が来たことを、
少しだけ、誇らしく思った。




