表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

185/189

下働きがそれをしたことのない古参衆に文句を言うが黙らせる。

 下働きは、正直しんどい。

 水を汲み、床を拭き、薪を割り、鍋の底を磨く。

 味も見られへん。客の顔も遠い。

 そんな中で、のぶやさきちゃんが、ふっと声をかける。

「今日はえらかったな」

 そう言って、小さなおだちんを渡したり、甘いもんを一つ差し出したりする。

 それだけで、救われる瞬間がある。

 ああ、見てくれてるんやな。

 ちゃんと数に入れてくれてるんやな、と。

 せやけど、全員が素直に受け取れるわけやない。

「……なんか、ずるないですか」

 ある日、ぽつりとそんな声が出た。

「昔からおった人らって、こんな下働き、なかったんでしょ」

「今の俺らだけ、きつい気がする」

 場の空気が、少し張る。

 そのとき、古参が口を開いた。

 声は低く、感情は乗せへん。

「1軒、2軒しかなかった頃の話、知ってるか」

 誰も答えへん。「鍋も、帳面も、全部手探りや」

「正解なんか、どこにもなかった」

 続けて、のぶが言う。「俺が来た頃な」

「ここ、まだ一軒だけやった」

 皆がのぶを見る。のぶは、淡々と話す。

「三井から出てきたんは事実や」

「せやけど、保証なんか、何もなかった」

 安定した道を捨てて、

 名前も通ってへん店に来る。

 それは、賭けや。「人生を張る賭けや」

 のぶは、はっきり言うた。

「それをな」「一軒しかない時に、できるか」

 言葉が、重く落ちる。

「人気出てから来るのは、楽や」

「勝ち馬に乗る、いうやつや」

 悪いことやない。誰でも、そうしたい。

「でもな」古参が引き取る。

「誰からも見向きされへん時に」

「相手を信じて、ついて行くのは、全然ちゃう」

 不安しかない。逃げ道もない。

 それでも、踏み出す。

「それができる人間は、少ない」

 しんと、静かになる。

 さきちゃんが、最後に言った。

「今の下働きが、しんどいのは分かる」

「でもな、今は“道”が見えてる」

 店はある。役割もある。次に行く段も、見えている。

「私らの頃は、何もなかった」

「あるのは、人だけ」

 それを聞いて、さっき不満を言った者が、視線を落とした。

「……確かに」誰かが小さく言う。

 人気が出てから人が集まる。

 それ自体は、悪やない。

 せやけど、それは“結果”や。

 その結果が出るまで、

 誰が、何を賭けてきたか。

 それを知れば、

 軽々しく「ずるい」とは言えへん。

 のぶは、最後に付け加えた。

「今、お前らが下働きしてる間に」

「次の店も、次の役も、ちゃんと用意されとる」

「せやから」「辞めるなら、今でもええ」

「残るなら、腹括れ」それ以上は言わん。

 しばらくして、誰も何も言わず、また仕事に戻った。

 音だけが、場に戻る。

 下働きは、急には楽にならへん。

 せやけど、意味は見えた。

 そしてそれだけで、

 人は、もう少しだけ踏ん張れる。

 博之は、少し離れたところで、その様子を見ていた。

 自分が出る幕は、なかった。

 そういう時が来たことを、

 少しだけ、誇らしく思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ