表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

182/189

花見の帰り道。お高がこどもができたことを博之に話す。

花見の帰り道、夜風が少し冷たくなっていた。

酒も抜けきらんまま、博之はいつもの調子で、仕事の段取りを頭の中でなぞっていた。

明日はどの店を回るか、裁く紙は何枚残っていたか――そんなことばかりや。

お高は、しばらく黙って歩いていた。

桜の並木を抜け、提灯の灯りも途切れたあたりで、ふっと立ち止まる。

「……なあ」博之は、二、三歩先に行ってから振り返った。

「どないした」お高は、夜道の影に半分溶けながら、言う。

「いつまで経っても、気づかへんからな」

その声は、責めるでもなく、笑うでもなく、妙に落ち着いていた。

「何の話や」 博之が首を傾げると、お高は一歩近づいて、小さく息を吸った。

「子ども、できた」一瞬、音が消えた。

 風の音も、遠くの笑い声も、全部が薄くなる。

「……は?」間抜けな声が出た。お高は、呆れたように笑う。

「ほらな」「やっぱり、その顔や」

 博之は、言葉を探して、口を開いては閉じた。

 胸の奥が、じわっと熱くなる。

「……気づかんで、すまん」

 最初に出たのは、それやった。

 忙しさを理由にする気はなかった。

 ただ、見てへんかった。その事実だけが残る。

「謝らんでええ」お高は、ゆっくり首を振る。

「忙しいのは分かっとる」

 それでも、博之はもう一度、頭を下げた。

「ほんまに、すまん」

 次に出たのは、笑いとも、ため息ともつかん声や。

「……で、ほんまか」「ほんまや」

 お高は、少しだけ胸を張った。

 そこでようやく、喜びが追いついた。

 腹の底から、どっと湧いてくる。

「……よかったな」それしか言えへん。

 せやけど、それで十分やった。

「十月の予定や」お高が言う。

「十月……」博之は、頭の中で暦をめくる。

 忙しい時期や。でも、それ以上に、楽しみな月になる。

「男やったらな」博之は、ぽつりと言う。

「仕込みから、頑張らせたいな」

 お高は吹き出した。「気が早すぎるわ」

「せやけどや」「火の前に立つ前に、まず掃除や」

「水汲みや」「楽して鍋触るな、言うたる」

「鬼やな」お高は笑う。「女の子やったら……」

 博之は、少し間を置いた。

「変なやつ、近づかんようにしたいな」

 言いながら、自分でも分かっていた。

 それが一番難しい。

「もう始まってるで」

 お高が言う。「その顔」

 博之は、苦笑した。

 守れるもんなんて、限られている。

 それでも、守ろうとするのが親や。

 夜道をまた歩き出す。

 二人の足取りは、さっきより少しゆっくりや。

「仕事、減らす気ある?」お高が聞く。

「減らすいうより……」博之は考える。

「置く場所、変える」

 現場は減っても、見る目は減らさん。

 歩く距離は、むしろ増えるかもしれへん。

 家が見えてきた。いつもと同じ戸口。

 せやけど、中身はもう違う。

 博之は、玄関の前で立ち止まり、もう一度言った。

「気づかんで、ほんまにすまん」

 お高は、ため息まじりに笑った。

「次は、気づいてや」

 その言葉に、博之は深く頷いた。

 十月。新しい命が来る。

 鍋も、店も、町も大事や。

 せやけど、今はもう一つ、

 何よりも大事な仕込みが始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ