花見の帰り道。お高がこどもができたことを博之に話す。
花見の帰り道、夜風が少し冷たくなっていた。
酒も抜けきらんまま、博之はいつもの調子で、仕事の段取りを頭の中でなぞっていた。
明日はどの店を回るか、裁く紙は何枚残っていたか――そんなことばかりや。
お高は、しばらく黙って歩いていた。
桜の並木を抜け、提灯の灯りも途切れたあたりで、ふっと立ち止まる。
「……なあ」博之は、二、三歩先に行ってから振り返った。
「どないした」お高は、夜道の影に半分溶けながら、言う。
「いつまで経っても、気づかへんからな」
その声は、責めるでもなく、笑うでもなく、妙に落ち着いていた。
「何の話や」 博之が首を傾げると、お高は一歩近づいて、小さく息を吸った。
「子ども、できた」一瞬、音が消えた。
風の音も、遠くの笑い声も、全部が薄くなる。
「……は?」間抜けな声が出た。お高は、呆れたように笑う。
「ほらな」「やっぱり、その顔や」
博之は、言葉を探して、口を開いては閉じた。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……気づかんで、すまん」
最初に出たのは、それやった。
忙しさを理由にする気はなかった。
ただ、見てへんかった。その事実だけが残る。
「謝らんでええ」お高は、ゆっくり首を振る。
「忙しいのは分かっとる」
それでも、博之はもう一度、頭を下げた。
「ほんまに、すまん」
次に出たのは、笑いとも、ため息ともつかん声や。
「……で、ほんまか」「ほんまや」
お高は、少しだけ胸を張った。
そこでようやく、喜びが追いついた。
腹の底から、どっと湧いてくる。
「……よかったな」それしか言えへん。
せやけど、それで十分やった。
「十月の予定や」お高が言う。
「十月……」博之は、頭の中で暦をめくる。
忙しい時期や。でも、それ以上に、楽しみな月になる。
「男やったらな」博之は、ぽつりと言う。
「仕込みから、頑張らせたいな」
お高は吹き出した。「気が早すぎるわ」
「せやけどや」「火の前に立つ前に、まず掃除や」
「水汲みや」「楽して鍋触るな、言うたる」
「鬼やな」お高は笑う。「女の子やったら……」
博之は、少し間を置いた。
「変なやつ、近づかんようにしたいな」
言いながら、自分でも分かっていた。
それが一番難しい。
「もう始まってるで」
お高が言う。「その顔」
博之は、苦笑した。
守れるもんなんて、限られている。
それでも、守ろうとするのが親や。
夜道をまた歩き出す。
二人の足取りは、さっきより少しゆっくりや。
「仕事、減らす気ある?」お高が聞く。
「減らすいうより……」博之は考える。
「置く場所、変える」
現場は減っても、見る目は減らさん。
歩く距離は、むしろ増えるかもしれへん。
家が見えてきた。いつもと同じ戸口。
せやけど、中身はもう違う。
博之は、玄関の前で立ち止まり、もう一度言った。
「気づかんで、ほんまにすまん」
お高は、ため息まじりに笑った。
「次は、気づいてや」
その言葉に、博之は深く頷いた。
十月。新しい命が来る。
鍋も、店も、町も大事や。
せやけど、今はもう一つ、
何よりも大事な仕込みが始まっていた。




