博之が福の神と呼ばれる日
広げすぎると、目が届かなくなる。
博之は、それを身をもって知っていた。
帳面の数字が合っていても、鍋の湯気は帳面には出えへん。
声の張りも、箸の運びも、紙の上では分からん。
だから、ふらっと店に行く。
看板も名乗りもせえへん。
ただの客として座り、飯を食う。
親子丼の割下が少し濃い日もある。
卵の火が一拍早い日もある。
豚汁の具の切り方が雑な日もある。
全部、致命的やない。
せやけど、積もると味になる。
気になる時は、店の中では言わん。
裏に回って、短く言う。
「今日、ちょっと走りすぎやな」
「声が前に出てへん」それだけや。
大抵は、それで十分や。
分かってるやつは、顔を見れば直す。
ほんまに動きが悪い時だけ、博之は別のことをする。
店長を呼び、黙って五百文ほど包む。理由は言わん。
「今夜、飲みに連れて行け」
それだけ伝える。
誰を連れて行くかは任せる。
叱るためやない。
場をほどくためや。
酒の席で、店の空気は出る。
文句も、疲れも、笑いも。
そこを聞かんと、次の手は打てへん。
博之は、店の中で説教はせえへん。
褒めもしない。
ただ、裏で金を渡し、時間を作る。
いつの間にか、そんなやり方が広まった。
「親方、福の神やで」
「怒らんけど、気づいてる」
「気づいてるけど、潰さん」
そんな声が、裏方から聞こえてくるようになった。
面倒見のいい福の神。
博之は、その呼び名を気に入ってはいなかったが、否定もしなかった。
その噂を聞きつけて、ユキが茶化しに来た。
暖簾をくぐるなり、笑う。
「仕事しすぎちゃう?」
「また店、回ってたんやろ」
博之は、黙って飯を食う。
箸を置いてから、ぽつりと言う。
「見てへんと、不安になるだけや」
ユキは肩をすくめた。「でもな」
「前より、身軽そうやで」
それは、博之自身も感じていた。
現場に立つ時間は減った。
鍋を振る回数も、減った。
せやけど、全部を背負っていた頃より、今の方が動ける。
歩ける。聞ける。広げた分、離れた。
離れた分、全体が見える。「福の神やな」
ユキは、もう一度言う。「神ちゃう」
博之は、即座に返した。
「目ぇ離したら、すぐ逃げるだけや」
笑いながらも、心のどこかで分かっていた。
これは、楽になったわけやない。
形が変わっただけや。
夜、帳場に戻り、紙を見る。
裁く日を待つ紙。保留の紙。
まだ触らん紙。
明日も、どこかの店で飯を食う。
味を見る。声を聞く。
広げすぎないために、歩く。
目を届かせるために、離れる。
福の神と呼ばれても、
博之は今日も、ただの客として、暖簾をくぐる




