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博之44歳2月。さらに親子丼2軒出す。料理教室の縁談が決まりだす

 二月に入ると、町の空気がまた一段動いた。豚汁屋の隣に、親子丼屋を二軒出す。

 話自体は急やったが、段取りはできていた。鍋も、人も、流れも、もう一度回せる。

 下働きで入った二十人から三十人の者たちは、その話を聞いて、最初は半信半疑やった。

 正直に言えば、下働きはつまらん。掃除、桶運び、薪割り。

 鍋にも触れへん。味も見られへん。

 けど、新しい店ができる。今いる連中が店長になり、

 高い給金をもらっている。その現実を、すぐ近くで見ている。

「自分らにも、道がある」そう思える距離に来たとき、人は変わる。

 文句は減り、手が早うなる。声も出る。

 博之は、それを少し離れて見ていた。親子丼屋ばかりが増えていく。

 どうしても、豚汁屋が軽くなっている気もする。

「まぁ……しゃあないか」親子丼は回転が早い。

 人の動きが見える。段取り、声掛け、帳場。

 学べることは多い。まずはそこで育てる。

 豚汁は、そのあとや。

 そんな折、料理教室の場で、縁が動き出した。

 二組、三組と話がまとまり、縁談が決まる。

 結婚の運びになる子も出てきた。

 挨拶に来るとなれば、博之のところにも顔を出す。

 男の方は、背筋を伸ばして座る。場の空気が、いつもと少し違う。

「うちで働いてくれた子や」博之は、淡々と言う。

「大事にしたってくれ」それだけやったら、話は軽い。

 せやけど、博之は続けた。「縁談が途中で壊れたことがあってな」

 男の顔が、少し固まる。

「そのときは、紹介してきた人のとこまで、わしが乗り込んだ」

 冗談でも、脅しでもない。事実や。

「そんなことにならんようにしてくれ」

 男は、はっきりと頷いた。

 ちょっと、ビビっているのが分かる。

挨拶も一通り終わり、場の空気が少し緩んだところで、

博之はふと、男の方へ身を寄せた。声を落とす。ほんの耳打ちや。

「百歩譲ってな」笑いもせず、脅しもせず、ただ事実を伝える調子で。

「遊郭に行ったことがある、いうだけで、わしは怒ったりせえへん」

 男は、一瞬だけ目を見開いた。そして、固まる。

「……全部を最初から“あかん”言うてしもたらな」

 博之は続ける。「嘘が増える。隠し事が増える。それが一番、厄介や」

 そこまで言うたところで、横から声が飛んだ。

「――ちょっと」お高や。にこやかな顔。けど、間がない。

「何をこそこそしてんの?」声は柔らかい。せやけど、逃げ道はない。

 博之は、しまったと思った。男の方は、完全に背筋が凍っている。

「……いや、その……」博之が言葉を探している間に、

「今、“遊郭”って聞こえたんですけど」

 お高は、はっきり言うた。笑顔のままや。

 目だけが、笑ってへん。

「それってな」首を少し傾ける。

「あんたも“行っていい”って話になるん?」

 場の空気が、一段冷えた。

 男は息を詰め、博之を見る。

「ちゃうちゃう」博之は、少し早口になる。

「そういう話やない。全然ちゃう」

 手を振りながら、言葉を重ねる。

「全部をな、頭ごなしに禁止したら、嘘が増えるやろ」

「せやから、“そこはわしらが口出すとこやない”ってだけの話でな」

「夫婦の話や。うちらが裁くことやない」

 理屈は通っている。自分でも、そう思っている。

 せやけど、言い方が必死や。「ふーん……」

 お高は、短く相槌を打った。怒鳴らない。問い詰めもしない。

 ただ、にこっと笑う。

「その話はな」声は相変わらず柔らかい。

「家で、ゆっくりしましょうか」

 その瞬間、博之は悟った。これは終わってへん。

「……せやな」そう答えるしかなかった。

 男の方は、完全に縮こまっている。

 目が泳ぎ、手の置き場も分からん。

「今日は挨拶やしな」

 お高は、場を戻すように言う。

「細かい話は、また後で」

 その言葉に救われたような、

 救われてへんような。

 帰り道、二人並んで歩く。

 二月の空気が冷たい。

 博之は、何度か口を開きかけて、やめた。

 今しゃべると、墓穴を掘る。

 お高は何も言わん。笑顔もない。

 ただ一言、玄関の前で言う。

「……逃げ道、作るのは得意やな、あんた」

 それだけやった。博之は、返す言葉を持たんまま、

 黙って戸を閉めた。商いでは、間合いを読む。

 人の縁でも、線を引く。―せやけど、

 家の中の間合いだけは、いまだに測り切れてへん。

 そう思いながら、博之は、少し背中を丸めた。

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