現場を離れ、味を紙に書き始める。
現場を少し離れる、という決め方は、思っていたより難しかった。
有馬から戻ってきて、ひろゆきは意識して帳場の奥に立つ時間を減らした。
代わりにやり始めたのが、見回りと仕入れ先回り、それから紙に書き落とす作業やった。
最初に声をかけたのは、のぶと、さきちゃんや。「今日はな、鍋触らん」
二人は一瞬、顔を見合わせた。「具合悪いんですか?」
「ちゃう」ひろゆきは首を振る。「今やっとかなあかん仕事がある」
店は回っている。味も、段取りも、大きなズレはない。
けど、**“わかってる人間がいるから回ってる”**状態やというのも、分かっていた。
「割下な」帳場の机に紙を広げながら言う。
「これ、誰でも同じ味出せる?」のぶが、少し考えてから答えた。
「感覚、ですね」「せやろ」ひろゆきは、筆を取った。
「砂糖、醤油、酒。分量だけ書いても、あかん」
問題は、順番と時間や。「最初に火を入れるのか、
一度冷ますのか。煮詰める時間は何分か」そこが一番、説明しづらい。
「これ、後に残す意味がある」ひろゆきは、はっきり言った。
「独立を防ぐため、って言うたら聞こえ悪いかもしれん」
さきちゃんが、静かに言う。「でも、味を守るためですよね」
「せや」ひろゆきは頷いた。「勝手に出てって、“うちと同じ味や”
って言われるのも嫌やし、中で育った人間が、味をバラバラにするのも嫌や」
だから、書く。感覚を、言葉にする。曖昧なところほど、何度も書き直す。
「煮炊きはな、火加減より、放置する時間が肝や」
のぶが、紙を覗き込む。「ここ、分数で書きます?」
「書く。でも、“目安”って添えとく」鍋は、生き物や。季節で変わる。
火力でも変わる。それでも、基準があるかないかは、全然違う。
午後は、仕入れ先を回った。鶏、卵、醤油、酒。
「最近、量増えましたな」「せやな」
雑談の中で、条件を詰める。値段。品質。融通。
ひろゆきは、現場に張り付いている時より、
この時間の方が、店を動かしている感覚があった。
夕方、また古参を集める。「次は、新しいもん考える」
「新商品ですか?」「せや。今ある具でやる」
無理に増やさない。新しい仕入れはしない。
「鶏ガラ、割下、飯。これで何ができる?」
沈黙のあと、さきちゃんが言った。
「炊き込み……ですかね」「せやな」ひろゆきは、にやりと笑う。
「握り飯にしたら、どうや」「笹で包んだら、弁当にもなりますね」
「それや」余りもんを、主役にする。
それが、ひろゆきのやり方やった。夜、帳場で一人、紙を見返す。
分量。時間。段取り。派手な仕事やない。
けど、店を残す仕事や。ひろゆきは思った。
現場を離れるっていうのは、手を抜くことやない。
責任の場所を変えることや。この紙が残れば、味も、人も、
勝手に崩れへん。それが、今の自分の役目やと、
静かに腹に落ちた。




