有馬温泉で休息。温泉卵と豚の角煮のヒントを得る。
有馬での時間は、思っていたより静かやった。
朝は遅く起き、湯に浸かって、何も考えずに天井を見る。
それだけのはずやった。せやのに、博之の目は、
どうしても温泉卵に行ってしまう。湯屋の脇に置かれた籠。
湯気の向こうで、殻の白がほのかに透けている。
「……きれいやな」普段の卵には、正直、興味がない。
ゆで卵は特に苦手や。黄身が粉っぽくて、
白身が主張してくる。せやけど、この卵は違う。
割ると、白身がぷるりと揺れて、黄身が流れ出す。
「これやったら、食えるな」いや、作りたい。
そう思ってしまった時点で、もう、仕事の顔に戻っている。
「……あかんあかん」博之は、頭を振る。
「休みや」そう自分に言い聞かせながらも、
次の考えが浮かぶ。——これ、燗酒と一緒に出したらどうやろ。
強くない肴。味を足しすぎない。酒の温度で、旨さが変わる。
「……酒の人に見せたいな」思わず、口に出ていた。
「また始まった」向かいで、お高が呆れた顔をする。
「休みに来てるんやろ?」「来てる来てる」
「顔が、もう店の顔」 博之は、苦笑いする。
「癖みたいなもんや」「分かってるけどさ」
おたかは、卵を一口食べてから言った。
「でも、今は味わお?」「……せやな」
湯治場の昼は、ゆっくり流れる。
縁側で風に当たっていると、
観光客が声をかけてきた。
「ええ湯ですね」「ほんまに」
他愛のない話から、自然と、食の話になる。
「この辺は、卵が名物で」
「さっき食べました。あれ、ええですね」
すると、その中の一人が言った。
「豚も、うまいんですよ」「豚?」
博之が、思わず反応する。
「薩摩から来てまして」なるほど、訛りがある。
「向こうでは、豚をやわらかく煮たもんをよう食べます」
「角煮みたいな?」
「そうそう。でも、もっと脂を落として、
ゆっくりやるんですわ」
博之の頭の中で、何かが繋がる。
湯。低い温度。時間。「卵と、一緒に?」
「ええ。最後に卵を添えると、脂が丸くなる」
お高が、横で静かに聞いている。
「それ、名前あるんですか」
「らふてー、って言います」
その言葉を、博之は、心の中で繰り返した。
らふてー。帰り道、お高が言った。
「ねえ」「ん?」
「休みやのに、いっぱい拾ったね」
「……拾ってもうたな」
博之は、少し照れたように笑う。
「でも、今度はちゃんと、
一回持ち帰るだけにしとく」
「それなら、ええ」
お高も、笑った。
有馬の湯は、身体を緩めるだけやなく、
頭の芯を、少しだけ整理してくれた。
温泉卵。燗酒。豚の煮たやつ。
それが店に並ぶかどうかは、
まだ、先の話。今はただ、この湯に浸かって、
二人で並んで歩く。それで、ええ。
——仕事の種は、逃げへん。
博之は、そう思いながら、
もう一度、湯気の向こうを見るのやった。




