ユキが久しぶりに来た。忙しすぎて会いに来づらい。今後のこと考えているか?
ユキが店に顔を出したのは、夕方の少し手前やった。
居酒屋が本格的に回り出す前。百文セットもまだ残っていて、
帳場も、ほんの一息つける時間や。
「久しぶり」そう言って入ってきたユキを見て、
ひろゆきは一瞬、言葉に詰まった。「おお……来てたんか」
お披露目の挨拶には来ていた。けど、その時は人が多すぎて、
まともに話す余裕もなかった。「最近さ」
ユキは腰を下ろしながら、苦笑いした。
「忙しそうで、話しかけにくいねん」
責める口調ではない。でも、少しだけ距離を感じさせる言い方やった。
「困るんよ、それ」「すまんな」ひろゆきは、素直に言った。
「回り出したら、止めどきが分からんくなってもうて」
ユキは、店の中をぐるっと見回した。人は、まだ少ない。
でも、すでに空気は張っている。
「勢いあるな」「まあな」「……で」
ユキは、少し間を置いてから言った。
「一回、落ち着いたらさ。新婚旅行、行ったらええやん」
ひろゆきは、思わず目を瞬かせた。「新婚旅行?」
「そう。有馬とかでええねん」その名前に、ひろゆきは小さく笑った。
「この前、話出てたわ」「やろ?」
ユキも笑う。「ずっと走りっぱなしやん。今のままやと、
気づいたら次の一年始まってるで」
ひろゆきは、何も言わず、湯呑みを持った。
「それとな」ユキの声が、少し真剣になる。
「家族のこと、どう考えてる?」その言葉に、
ひろゆきの手が止まった。
「急に、重いな」「せやから、今聞くんや」
ユキは、目を逸らさへん。「店がうまくいってる時って、
選択肢が一番増えるやろ」
ひろゆきは、ゆっくり息を吐いた。
「正直、まだちゃんと考え切れてへん」
「ほう」「店は回ってる。数字も出てる。人も育ち始めてる」
そこで一度、言葉を切る。
「せやけど、これをどこまで広げたいか、
どこで止めたいか……まだ線引きできてへん」
ユキは、静かに頷いた。
「子ども持つとか、持たんとか、それも含めて?」
「含めてやな」ひろゆきは、正直に言った。
「勢いのまま決めたら、あとで歪みが出る気がしてな」
「それ、ええ感覚やと思うで」ユキは、少しだけ笑った。
「勢いある時ほど、何も決めへん人、多いから」
ひろゆきは、店の奥を見た。
燗酒の湯が揺れている。給仕が、声を掛け合っている。
「この店を真ん中に据えるのは、
間違ってなかったと思ってる」「うん」
「せやけど、人生の真ん中に据えるものが、
店だけになったらあかんな、とも思う」
ユキは、そこで初めて少し安心した顔をした。
「それ聞けて、よかったわ」
「なんや、心配してたんか」「当たり前やろ」
ユキは、肩をすくめる。
「成功してる人ほど、一人で突っ走るからな」
少し沈黙が流れる。
「有馬、ええと思うで」
ユキが、もう一度言った。
「湯に浸かって、何も決めへん時間作れ」
「……考えとく」
「考えるだけでええねん」
ユキは立ち上がった。
「また来るわ。今度は、ちゃんと話せる時間に」
「おう」ユキが出ていくのを見送りながら、
ひろゆきは、胸の奥に残った言葉を反芻していた。
どうなりたいのか。店は答えてくれへん。
数字も、答えてくれへん。
答えを出すのは、走るのを一度止めた時だけや。
ひろゆきは、静かに帳場に戻った。
その夜、有馬の湯の話を、
お高にしてみようと思いながら。




