二つの鍋 ――聞かれるということ
その日は、豚にすると決めていた。
博之は、朝の仕込みでそう判断した。
仕入れは安定している。
客の数も、読める。
余計なことはしない。
店は、まだ小さい。
鍋は、一つでいい。
最初の客は、七十文を黙って置いた。
次も、その次も、流れは悪くない。
博之は、少しだけ肩の力を抜いた。
――今日は、これでいい。
四人目が、椀を受け取りながら言った。
「……今日は、鶏はねえのか」
博之の手が、一瞬止まる
「今日は、豚です」
「そうか」
客は、それ以上何も言わずに食べた。
だが、その言葉は残った。
五人目。
「鶏、出てた日があっただろ」
「はい」
「今日は?」
「ありません」
客は、少し考えてから入った。
七十文。
だが、食べ終わるのが早い。
迷いながら食っている。
博之は、そう感じた。
昼前。
三人続けて、同じことを聞かれた。
「今日は豚か?」
「鶏はないのか」
「軽いのがよかったんだが」
誰も、文句は言わない。
だが、
期待は、確かにそこにある。
暖簾を一度下げ、博之は店の奥に戻った。
鍋を見る。
豚汁は、変わらずいい。
だが――
鶏汁を出した日の顔を、思い出す。
軽くなった表情。
迷いのない銭の出し方。
「……選ばせてないな」
博之は、呟いた。
裏に回り、空いていた鍋を引っ張り出す。
古いが、使える。
鍋を増やす。
それは、
仕込みが倍になるということだ。
失敗も、増える。
だが――
聞かれている以上、無視はできない。
博之は、札を書き直した。
本日
豚汁 七十文
鶏汁 五十五文
先着は、書かない。
もう、試しではない。
午後。
「今日は、選べるのか」
そう言って、客が入ってくる。
「はい」「……じゃあ、鶏で」
別の客は、迷わず言った。
「俺は豚だな」
鍋は、どちらも減っていく。
数は、昨日より少ない。
だが、外れがない。
夕方、町人が来た。
「決めたな」
「聞かれましたから」
博之は、そう答えた。
「聞かれるってのはな」
町人は、静かに言う。
「もう、店として見られてるってことだ」
博之は、鍋を見た。
二つ並んで、湯気を立てている。
どちらも、嘘はない。
この先、
どちらが残るかは、分からない。
だが――
聞かれる限り、出す。
博之は、そう決めた。
鍋は、二つ。
迷いは、もう一つもなかった。




