九軒目の話を進める。親子丼屋と給金の話
九件目は、親子丼屋や。博之は、そう心の中で決めていた。口には出さへんかったが、
帳面を閉じた指の感触で、自分でも分かっていた。ただし、条件はつける。給金や。
普段の豚汁屋では、店長には七両を出している。最初の頃から比べれば、
ずいぶん上げた。それは、味を預け、人を預け、店そのものを任せるからや。
けど、親子丼屋の店長は五両。ここは譲らへん。「理由ははっきりしてる」
集まった連中を前に、博之はそう切り出した。
「親子丼は、ゼロから味を作らせる店やない。豚汁屋で出た鶏汁の出汁を使う。
材料も、段取りも、向こうから持ってくる。ここでやるのは、煮る、焼く、
まとめる。それだけや」もちろん、手際は要る。火の入れ方一つで卵は死ぬし、
飯の温度がずれたら台無しになる。けど、“味を生む”仕事ではない。
「味覚を一から育てる修行は、ここではさせへん。その分、給金も抑える」
場が静かになる。反発が出るかと思ったが、誰も口を挟まない。
「代わりにや」ひろゆきは、少し声を落とした。
「ここは、下働きの料理人の中から選ぶ。店を回す練習の場にする。中間の役や。
指示を出して、段取りを組んで、売上を見て、帳面を締める。その訓練やと思ってくれ」
鍋を洗い、配膳を回し、場の空気を見てきた連中の中から、選ぶ。
「これから先、店を増やすなら、豚汁と親子丼はペアで回す」
ひろゆきは、路地の先を指でなぞるように話す。「豚汁屋で出た鶏汁の出汁を、
親子丼に流す。無駄が出えへん。横丁の中で回しながら、じわじわ増やしていく。
急がんでええ」なるほどな、という声が、あちこちから漏れた。
商いの話で、腹落ちする瞬間の、あの静かな熱や。
「せやからや」ひろゆきは、少しだけ笑った。
「親子丼屋をやる前に、一回みんなに食わせる。正直言うて、ここにおる連中、
親子丼をちゃんと食うてきたやつ、そんなおらんやろ」笑いが起きる。
「今考えてる味で一回振る舞う。そこで、忌憚のない意見をくれ。出汁の具合、
卵の固さ、飯との馴染み。鶏汁の出汁やから、思ったより主張が強いかもしれん。
その辺は調整する」試して、直して、決める。感覚ではなく、合意で味を固める。
それが、博之のやり方や。「今は八軒、うまく回っとる」
最後に、ひろゆきはそう言った。「九軒目と、居酒屋を出すときは、
味を決め切った上で、一人店長を選ぶ。そのつもりで動いてくれ」
場の空気が、一段上がった。誰が行くんや、という視線が交差する。
責任と期待が、同時に置かれた瞬間や。「これは、また人気出そうやな」
誰かが言い、笑いが広がる。 派手さはない。けど、確実に前に進む話やった。
鍋と帳面と、人。その三つをどう組むかで、店は増える。
博之は、そう確信していた。




