博之とお高のお試し生活期間
朝の空気は、まだ少しひんやりしている。
お高はいつも通り、三井の方へ向かう。
朝は向こうの仕事。帳面を見て、人の動きを見て、
口を出しすぎず、必要なところだけを整える。
派手さはないが、無駄がない。
それは博之が一番信用する動き方でもあった。
昼前になると、決まった時間に暖簾の前に姿を見せる。
「今日も、ここで食べてええ?」
そう言って店に入るのが、もう当たり前になってきている。
豚汁と、軽めの定食。二人で向かい合って食べるが、
話は相変わらず仕事のことが多い。
「朝のあの店、客の流れ変わってきてます」
「せやろ。昼の立ち上がり、ちょっと早なった」
恋の話はほとんど出ない。でも、不思議と居心地は悪くない。
昼を食べ終えると、そのまま奥に回り、夕方までは一緒に働く。
お高は「下働き」で入る。水を運び、器を下げ、声を張りすぎず、
空気を読む。その動きが、きびきびしている。
博之は、横目でそれを見る。(ああ、この人、現場わかってるな)
早すぎず、遅すぎず。前に出すぎず、引きすぎない。
料理人の動きを邪魔せず、給仕の子の目線も奪わない。
「教える」より「合わせる」。それができる人間は、案外少ない。
「タカさん、さっきのとこ、助かりました」
給仕の子がそう言うと、「たまたまよ。あそこ、詰まりやすいだけ」
そう返すだけで、恩を売らない。その様子を、周りは自然に見守っている。
(ああ、こういう顔するんやな、みんな)博之はふと、そう思う。
いつもは仕事の顔しか見せない連中が、少しだけ柔らかい目をしている。
夕方、店を閉めると、二人は同じ家に帰る。夜は、派手なことはしない。
軽く食べて、湯に入って、並んで座る。「今日はどうでした?」
「悪なかったです」それだけで十分。布団を並べることもあるが、無理はしない。
この一ヶ月は、“確かめる期間”だと決めている。「嫌やったら、やめよ」
最初にそう言ったのは、お高だった。「一緒に働いて、食べて、帰って」
「それがしんどかったら、無理に進めんでええ」博之も、それに頷いた。
「俺も、人と暮らすの久しぶりや」「せやから、目の前で見たい」
他所の店に入れてしまえば、噂が立つ。三井の匂いも強くなる。
せやから、ここで。自分の目の届くところで。そうして始まった一ヶ月は、
気づけば半分を過ぎていた。誰も、何も言わない。
でも、空気は確実に変わっている。「なんか、ええな」
のぶが、ぽつりと漏らす。「うん。店が、静かや」
さきちゃんも、そう言う。特別なことは起きていない。
でも、無理がない。博之は思う。
(結婚の話より先に、これができたんは正解やな)
人と一緒に暮らし、働き、それでも気が張りすぎない。
その感覚を、久しぶりに思い出していた。
一ヶ月後、嫌じゃなかったら、ちゃんとお披露目する。
その約束だけを胸に、今日もまた、暖簾を下ろす。
店の灯りが消えたあと、家に向かう二人の背中を、
町の夜風が、静かに押していた。




