開け値 ――六十文と七十文のあいだ
博之は、まだ暖簾を出していなかった。
朝の大坂。川からの湿った風と、魚の匂いが混じる。
通りの向かいでは、粥屋がもう火を入れている。
一杯、二十五文。
少し先の汁屋。
魚のあら汁で、四十文。
客は多い。
だが、足は止まらない。
安いが、弱い。
博之は、店の中に戻った。
間口は狭い。鍋は一つ。
椀も、数は限られている。
原価を考える。
豚――十文。
野菜――五文。
味噌――五文。
一杯、二十文。
これは、松阪と変わらない。
だが、大坂だ。
豚の仕入れは、正直、不安だった。
数はある。
だが、質が安定しない。
安い肉は、脂が雑。
下手をすれば、臭みが出る。
「……三日、持たせたい」
博之は、独り言のように言った。
三日分を、確保する。
だが、無駄にはできない。
通りを、もう一度見る。
荷を下ろした男。
立ち止まって、店を探す目。
商いの途中で、腹を入れたい者。
六十文なら、出す。
七十文なら、迷う。
博之は、そう感じた。
だが――
いきなり七十文は、重い。
「……先に、試すか」
博之は、決めた。
鍋の火を強める。
味噌を溶く。
匂いが、通りへ流れる。
暖簾を出す。
小さく、書いた札。
本日
豚汁
先着十杯 六十文
以後 七十文
自分でも、少し緊張した。
逃げ道を作った値段だ。
一人目は、荷運びだった。
札を見て、少し考え、入ってくる。
「六十文だな」
「はい」
一口。
無言。
二口目で、顔が変わる。
「……安いな」
博之は、何も言わない。
その言葉を、待っていた。
二人目。
三人目。
十杯目が出るころ、
通りに、人だかりができ始めた。
「もう六十文は終わりか」
そう言って、引く者もいる。
だが――
「七十文でも、いい」
そう言って入る者がいた。
博之の胸が、少し熱くなる。
原価、二十文。
六十文なら、四十文。
七十文なら、五十文。
数は出ない。
だが、減らない。
鍋の減りと、懐の軽さが、
釣り合っている。
博之は、鍋を見ながら思った。
値段は、数字じゃない。
納得の線だ。
夕方。
町人が、店の外から様子を見ていた。
何も言わない。
豪商の遠縁も、
通りの向こうで、ちらりと視線を寄こす。
まだ、声はかからない。
それでいい。
今日は、値を決めた日だ。
博之は、鍋の底を見た。
失敗は、していない。
――明日も、やれる。




