ようやく出る六軒目の話
耐えた下積みの時間が、ようやく形になった。
六軒目を出す。その話が店に落ちた瞬間、空気が変わった。
選抜が始まる――それは同時に、下積み卒業の合図でもあった。
名前を呼ばれた者も、呼ばれなかった者も、一様に息をのむ。
博之は淡々と告げる。「六軒目は、任せる」「下積みは、ここまでや」
声を荒げるでもなく、もったいぶるでもなく。
選ばれた下積みは、しばらく言葉を失ってから、
深く頭を下げた。「ありがとうございます」
その声は震えていたが、顔は晴れていた。
給金が、跳ね上がる。それは現実や。
これまでとは比べもんにならへん。
月の手取りが、目に見えて変わる。
不安はある。責任も増える。せやけど、正直に言えば――
嬉しい。それは、隠しようがなかった。
一方で、古参は少し離れた場所からそれを見ている。
「また一人、行ったな」誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
喜ばしいことや。せやけど、胸の奥が少しだけざわつく。
自分も、ああやって呼ばれた日があった。
不安と期待が混じった、あの瞬間。
「これ、何人目やろ」そんなことを考えて、
少し感傷に浸る。残る者、行く者。
それを何度も見送ってきた。誇らしさと、
ほんの少しの寂しさ。古参は、静かに盃を傾ける。
一方、博之は帳面を開いていた。
六軒。人も増えた。鍋も増えた。
動く金も、段違いや。
指で数字をなぞりながら、ふっと息を吐く。
「はじめは一軒、利益月十両やったのが……今は八両くらいやな」
始めた頃より、確実に儲けは減っている。
人件費。祝い金。手当。遊びの企画。
全部、自分で決めたことや。
後悔はない。せやけど、軽くもない。
「人、動かすんは金やないな」
そう呟いて、帳面を閉じる。
人を増やすと、難しさも増える。
店は回る。せやけど、気は抜けへん。
それでも――どこか楽しそうに、博之は考える。
「次、何やろうか」七軒目か。新しい企画か。
手習いのやり方を変えるか。悩みは尽きへん。
でも、それが嫌やない。六軒目の暖簾が、
静かに揺れる。誰かの下積みが終わり、
誰かの新しい責任が始まる。店も、人も、
また一段、先へ進んだ。博之は、
その様子を眺めながら、次の一手を考えている。
数字と人の間で、楽しみながら、悩みながら。まだ、道は続く。




