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双六で有馬温泉当たった奉公人のその後

有馬に当たったと聞いたとき、その男はしばらく言葉が出えへんかった。

それから、じわじわと顔が緩んで、最後には隠しきれんほど嬉しそうに笑った。

「二泊三日……ですか」

湯に浸かれるだけでも十分やのに、主人の命令で行ける。宿も取ってもらえる。

こんな話、今の居場所に来るまで、聞いたこともなかった。

浮かれへんように、と自分に言い聞かせながらも、胸の奥はずっと軽かった。

ただ、同時に不安もあった。二日、三日、自分が抜ける。

それだけで店の動きがどう変わるか、本人が一番よう知っていた。

「俺がおらん間、ちょっと大変になるかもしれん」

出発前、皆にそう頭を下げた。

「その分、戻ったら倍働きます。迷惑かけますけど、頼みます」

誰かが「気にすんな」と言い、誰かが「話、楽しみにしとるで」と笑った。

そうして、男は湯治に向かった。

有馬の町は、目に入るものすべてが新しかった。

湯けむり、坂道、宿の軒先。

名物の料理も、初めて口にする味ばかりや。

湯に浸かりながら、ふと思う。

「こんな場所、よう俺が来れたもんやな」

それだけで、胸がじんわりと温かくなった。

一方、店に残った側はというと、正直、楽ではなかった。

たった一人抜けただけで、動線がずれる。

仕込みが遅れる。声掛けが足りなくなる。

「なんや、今日やたら疲れるな」

誰かがそう漏らしたとき、皆が気づいた。

――あいつ、思ってた以上に回してくれてたんやな。

当たり前やと思っていた動きが、実は誰かの気配りで成り立っていた。

三日目の夕方、男が戻ってきた。

顔色が違う。少し日焼けして、目が澄んでいる。

「どうやった?」その問いに、男は一気に話し始めた。

湯の話、宿の話、坂のきつさ。飯の味、町の静けさ。

皆、自然と聞き入った。

話が一段落したところで、誰かが言う。

「正直な、あんたおらんで結構しんどかったで」

男は一瞬、きょとんとした顔をして、

それから少し照れた。「……そうですか」

「そうや」「それだけ、あんたが店のために動いとったってことや」

その言葉に、男は深く息をついた。

「行かせてもろて、ありがたかったです」

「戻ってきて、自分の場所があるって、よう分かりました」

誰も大げさなことは言わへん。ただ、場の空気が少しだけ変わった。

「次は、あんたが振る番やな」

「ええとこ当たるとええな」

そんな声が飛ぶ。男は笑って頷いた。

旅に出た者は、自分の役割を知った。

残った者は、誰と働いているかを知った。

それだけで、この双六は、もう十分やった。

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