ここはいくらで、向こうはいくらか――松阪から大坂へ
博之がいたのは、松阪の町外れだった。
伊勢へ向かう道と、大坂へ抜ける道が分かれる場所。
商いをするには小さく、
だが、食うには困らない町だ。
豚は、手に入る。
牛ほど高くない。
魚ほど足が早くない。
脂があり、腹に残る。
働く者の飯には、ちょうどいい。
「松阪じゃ、豚は安い」
町人は、そう言った。
「十文あれば、豚汁一鍋分の脂は手に入る」
博之は、仕入れ帳を思い浮かべる。
十文。野菜を足して、十五文。
椀にして十杯出せば、
一杯三文でも元は取れる。
――だが、実際には三十文で売った。
博之は、そこに違和感を覚えていた。
朝、博之は一人で町を歩いた。
豚汁を出す店。
粥を出す店。
焼き魚の匂いがする屋台。
値段を見る。
十五文。
二十文。
二十五文。
量は少ない。
味は、腹を満たすだけ。
三十文の豚汁は、この町では確かに高い。
だが――
昨日の町人は、迷わず出した。
「……値段じゃない」
博之は、そう思った。
空腹の度合い。
店の雰囲気。
湯気。
匂い。
そして、
出されたときの納得感。
値段は、
ただの数字じゃない。
「大坂に行く」
町人は、朝の仕込みの合間に言った。
「松阪からなら、食い物で勝負できる」
博之は、顔を上げた。
「豚ですか」
「ああ」
町人は頷く。
「魚は向こうにいくらでもある。
だが、豚は扱いが雑だ」
安い。
だから、雑になる。
その言葉の意味が、博之には分かった。
「向こうじゃ、豚汁は――」
町人は、少し間を置く。
「五十文。出し方次第で、六十文だ」
博之の喉が、静かに鳴った。
同じ鍋。
同じ味。
値段は倍。
だが、博之はすぐに言わなかった。
代わりに、尋ねる。
「……周りの店は、いくらで出しますか」
町人は、少しだけ笑った。
「いいとこを見るな」
そして答えた。
「粥は二十文。魚の汁で三十五文。
うまい店で、四十文」
博之は、頭の中で並べる。
値段。
量。
客の顔。
どこに置くか。
それを考えている自分に、少し驚いた。
「今のお前の勘定で行くと」
町人は、声を低くした。
「大坂じゃ、儲けすぎる」
博之は、即座に否定しなかった。
儲ける自分が、想像できたからだ。
だが同時に、
主人の顔も浮かんだ。
安くしろ。
量を出せ。
味を落とせ。
銭は、人を急がせる。
「博之」
町人が、名を呼ぶ。
「お前は、どうなりたい」
博之は、町を見た。
松阪の、静かな朝。
豚の匂い。
湯気。
「……毎日、来てもらえる店をやりたいです」
派手じゃなくていい。
だが、
軽くもしたくない。
町人は、深く頷いた。
「なら」
静かに言う。
「大坂でも、値段はお前が決めろ」
「儲けないために、ですか」
「違う」
「周りを見て、自分の立ち位置を決めるためだ」
博之は、その言葉を胸に刻んだ。
松阪から大坂へ。
距離はある。
だが、遠すぎない。
同じ豚汁で、
どこまで通じるのか。
博之は、鍋の蓋を閉めた。
次に開ける場所は、
大坂だ。




