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吸血鬼の封印を解いた助手が、純潔を捧げるまでの180分

作者: ピリリ
掲載日:2025/08/30

「……今すぐ恋活やってみよう♡、ねぇ……」

 エリアーテは仕分けの手を止め、軽薄なその文面を思わず読み上げた。


 資料や遺物や魔道具で雑然とする室内は、それらひとつひとつが研究の痕跡であり、部屋の主の頭の中をそのまま視覚化したような空間だった。

 そんな教授室で、助手であるエリアーテは届いた手紙の仕分け作業を進めていた。

 封蝋付きの書簡、専門家の推薦状、研究協会からの資料が詰まった分厚い封筒――。

 そうした中に混じって、やけに浮いている恋人探しの広告手紙ダイレクトメール

 学園の教授宛てにこんなものを送るなよ、と心の中で思いながら、彼女の口からもう一つの本音がポロリとこぼれ出る。


「先生には女性の影が見えない」


 そんなことをつい口にすると、


「いないですからねぇ」


 と、部屋の奥から淡々とした声が返ってくる。

 古代遺跡の資料をめくりながら、部屋の主は顔もあげずに答えた。


 彼は、トレミオル=イグレイ。

 帝都魔法学園において、異例の二十六歳という若さで考古学部門の教授を務めている。

 誰より深く古代文明を読み解き、その知識から生み出された魔道具はすでにいくつも学園に収められていた。

 彼の周りにはいつも生徒が集まる。どんな質問にも穏やかに、分かるまで言葉を尽くしてくれるからだ。

 ”魔道具を作るために遺跡を漁っている変人”なんていう人もいるけれど、遺跡の前に立つ彼を見れば考えを改めるだろう。

 何百年もの時を越えて送られた挑戦状に、燃える瞳で立ち向かう彼の横顔を見ればきっと。


 ……とはいえ、研究資料とにらめっこするために食事を抜くのはいただけない。今日もエリアーテが慌てて用意したサンドイッチが、彼の朝食になっていた。

 天才は、だいたい生活が壊れている――それを実感させてくれる人物だった。


 エリアーテは軽薄な手紙をゴミ箱に放り込んで、トレミオルに問いかける。


「研究が恋人ってヤツですか?」

「んー…研究に片思い、じゃないでしょうか。相手の気持ちは分からないので」


 それは“研究”という概念を相手に恋愛感情を語る、彼らしい言葉だった。

 この人は相変わらず少しずれていて、それが面白くてたまらない。

「ふふっ……」

 声を押し殺して笑うエリアーテの様子に、トレミオルはようやく顔を上げる。

 優れた頭脳でもっても彼女がなぜ笑っているのかは分からず、不思議そうにエリアーテを見つめていた。



「これ、運んでおきますね」

 次の授業で使う魔道具がつまった箱をエリアーテが持ち上げる。

「エリアーテさんは力持ちですね。助かります」

「任せてください! 体力には自信あるんです!」

 助手として彼の元で働く二十歳のエリアーテ=ココロアは、元気な返事と共に明るいオレンジ色のポニーテールを揺らした。


 彼女が助手になったきっかけは、家から近いし体力には自信があるから、というなんとも軽い動機で面接を受けたことだった。……けれど。

「家から近いのはいいですよね」

 と言って採用を決めた教授のほうも、かなりの変わり者だと彼女は思っている。

 そうして二年前から始まった助手の仕事は、気配り上手な彼女に合っていた。

 あまり勉強は得意ではないが、トレミオルの語り口は不思議と耳に心地よく、話を聞いているだけで面白いと思える。

 その「面白い」には、トレミオル本人のことも含まれているけれど――それは、エリアーテだけの秘密だ。



「トレミオル先生~! 課題がきついです~手伝って~~~!」


 授業の合間の廊下に数人の生徒が駆け寄ってくる。トレミオルは立ち止まり、首を傾げた。

「ん…? 今は何も出していないはずですが」

「魔法戦術授業のファイヤーボール100連射課題です」

「僕にどう手伝えと」

 生徒からの無茶な要求にトレミオルがツッコむ。

 十代の生徒たちにとって彼は兄のような存在でもあり、こうしてただ絡みにくる生徒も多い。

 彼はどんな話題であっても決していい加減にあしらったりはしない。生徒たちに向き合い穏やかに語りかける。


「まずはできる限り自分で頑張りましょう。どうしても無理そうなら、また来てください」

「はぁーい。どう手伝うんですか?」

「……どう手伝えばいいんでしょうね」

 そう言って頭を悩ませる彼を見て、生徒たちからは笑いがこぼれた。



 午後の自身の教授室。

 頬杖で口元を覆ったトレミオルの真剣な眼差しが、遺跡資料の文字を静かに追っていた。

 前髪の影からのぞく緑の瞳が宝石のように澄んでいる。

 普段の優しげな彼とはギャップのあるその表情を見かけて、エリアーテにはゾクリと走るものがあった。


 時折見せる鋭い雰囲気には思わず息を呑むほどの魅力があるのに、彼は見た目にはまるで頓着がない。

 身長はあるのに猫背気味だし、耳や目にかかる黒髪はところどころ跳ねていて、質はいいが使い込まれたローブをいつも羽織っている。

 整えれば人目をひく容姿であることに、気づいていないのか、どうでもいいのか。…たぶん、両方なのだろう。

 それに発掘現場ではいつも魔道具に頼りきりで、シャベルなんて持たせたらすぐに腰を痛めてしまいそうだ。


 ――だから、私がしっかりしなくちゃ。

 今日もエリアーテはひとり、気合を入れるのだった。



「朝のサンドイッチ、ごちそうさまでした。美味しかったです」

 資料から視線を外したトレミオルが、柔らかく笑んで声をかける。

「いえいえ。先生は何か苦手な具材はありましたっけ?」

「好き嫌いはありませんよ。どれも研究の燃料ですから」

「ふむ。えらいですけど…じゃあ朝はちゃんと食べてくださいよ?」

「それは、はい。まったくその通りで」

 彼はすらりとした指先で頬をかいて、気まずそうに笑った。


「一泊で遺跡調査に行く予定なんですが、エリアーテさんも来ますか?」

「もちろん行きます! 朝ごはんを抜かれたら困りますし、先生ひとりじゃ危なっかしいですから」

 およそ上司に言うべき台詞ではないが、エリアーテは悪びれもせずウインクしてみせた。揺れたポニーテールが、陽気な返事を後押しする。

「……否定できませんね」

 トレミオルは肩をすくめる。そして――


「頼りにしています」

 まるで太陽を見るようなまなざしで、彼は目を細めてほほ笑んだ。




 そうしてふたりは今、古代遺跡に立っている。


 ここはすでに何度か調査に訪れている大型の神殿遺跡。

 永い時の中で建造物の多くは崩れ去り、いくらかの建物を残して広い範囲に瓦礫が散乱している。

 魔除けのために建てられたこの神殿は、その大部分を失った今もまだ、辺り一帯に魔物を寄せ付けない。

 武力を持たないふたりでも安心して調査することができる場所だった。


「神殿の北側ってここら辺ですか? 瓦礫ばかりで、何もないようですけど」


 先ほど神殿を調査中に見つけた、『――北側の――封印に――』というかすれた一節を手がかりに、ふたりは一見何もないエリアへと足を運んでいた。


 この神殿の周囲一帯は森が切り開かれており、遮るもののない空が広がっている。すっかり日の暮れた漆黒に、一筋の光が走った。

「あ、流れ星! 先生、見ました!?」

 エリアーテが嬉しそうに振り返ると、トレミオルはしゃがみ込んで瓦礫を観察していた。

「大半の瓦礫は白灰石材ですが、この区画にはわずかに黒曜石材が混じっています。魔力を通しにくい素材です。……何かを封じたりするときに使われる……」

 立ち上がって辺りを見回す。


「瓦礫をどかして掘り返してみましょう」

「任せてください!」


 自信満々といった面持ちでエリアーテが進み出る。どうやら撤去作業をやりたいらしい。

「……できます?」

 トレミオルが眉をひそめて尋ねる。

「もう、そのくらいできますよ! この辺りの瓦礫を撤去すればいいんでしょう? 爆縮魔法でいいですか?」

「ええ、瓦礫自体は調査済みなので構いません」

 彼から受け取った魔道具を、エリアーテが瓦礫に向けてかざす。

 短い杖状の魔道具が先端の石から光を放ち、次の瞬間火花がはじけ、収束し、大きな突風だけを巻き起こして瓦礫が姿を消した。


 この魔道具はいろいろな魔法が使える万能型であり、トレミオルが作り出した魔道具のうちのひとつだ。

 この世界で魔法を使える人は約半数。トレミオルやエリアーテのように魔法が使えない側の人々は、魔法の行使に魔道具を使う。

 しかしこの新作の魔道具にまだ不慣れだったエリアーテには、少し扱いが難しかった。


「あれ? ……えへへ。手間が省けた、かな?」


 想定よりも広い範囲の瓦礫と同時に、地面の一部もごそっと消え去っている。

 えぐれた地面からさらに下に、パラパラと砂埃が落ちていくある程度の空間があることがうかがえた。

 その発見を気にするよりも先に、トレミオルが呟く。


「マナが切れてしまいました」

 エリアーテから受け取った魔道具を軽く振ってみるが、何の反応も示さない。

「すみません! 勢いあまってつい……」

「これは魔法を詰め込んだぶん制御機構を削ったので、少し扱いが難しいんです。マナは自然に溜まりますから、朝には戻りますよ」

 その言葉にエリアーテは「よかった~」と胸を撫でおろした。

 そして彼女がえぐった箇所に、ふたりで近寄ってみる。


「先生見てください! 下、結構広そうですよ!」

「ええ。詳しい調査は明日がいいかもしれません。一度拠点に――」

 興奮するエリアーテがランタンをかざして下を覗き込んだ、その時だった。

 パラパラと細かな破片が欠けていき、次の瞬間、足元がガラリと崩れる。


「あ、あ、わぁっ!?」

「!!」


 トレミオルは咄嗟に彼女の肩を引き寄せ抱え込む。

 しかし自分の足場ももろく崩れ、ふたりの身体は宙へと投げ出された。ふわりとした浮遊感のあと、地面が容赦なく背中を打つ。

「うぐッ……!」

 エリアーテを庇ったトレミオルの背に、強烈な衝撃が走った。

「先生!」

 トレミオルの腕の中から抜け出したエリアーテが慌てて声をかける。ふたり分の落下の衝撃を受けた彼の表情には、明らかな苦痛がにじんでいた。


「待っててください、今――!」

 エリアーテはバッグを探り、ポーションの瓶を取り出す。

「先生、これ!  飲んでください!」

 彼の体を抱きかかえて上体を起こし、赤紫の液体を口元へ運ぶ。

 トレミオルは苦しげにうめき声をあげながら、なんとかそれを嚥下していく。


 数秒後――

 眉間に深く刻まれていたしわがふと緩み、トレミオルは小さく息をついた。


「……ありがとうございます。もう、大丈夫です。助かりました」

「助かったのは私の方です。ごめんなさい、私のせいで……」

「エリアーテさん、ケガは?」

「ありません。先生が庇ってくれたから」

「なら、よかった」


 トレミオルはにこりと笑い、土埃を払いながらゆっくりと立ち上がる。

 上級ポーションの効果はすぐに現れ、骨身にまで響くような痛みはすでに引きつつあった。その様子を見てエリアーテがほっと息をつく。

 ふたりは互いに無事を確認し合い、それからようやく周囲の様子へと意識を向けた。



(教室くらいの広さ…かな。…なんだか変な場所)


 がらんとした空間の中央には棺のような何かがあり、次に壁の異様さに目を奪われる。

 四方の壁一面に、呪文や魔法陣のようなものが彫り込まれていた。

 エリアーテにはそれが何を意味するのかは分からない。ただ、長い年月が経っているとは思えないほどきれいに残っており、まるで時間が止まっているかのような異様さだけは感じ取ることができた。


「……ここは…墓か…?」

 トレミオルが呟いた。


 天井は高く、エリアーテが削ったことと崩れた影響もあって半分以上ひらけており、月明りが静かに差し込んでいた。

「肩車しても全然届かない……」

「そうですね。魔道具が起動できれば、このくらいの高さ訳はないのですが」

 壁には足場になるようなものもなく、扉や階段も見当たらない。

 トレミオルの言う通り、ここはまるで墓穴のようで、エリアーテはどこか落ち着かない気持ちを覚えるのだった。


 他の魔道具はすべて拠点に置いてあり、手元にある魔道具はランタンと、マナ切れで反応を示さなくなった杖。

 軽食と水、メモ帳や遺跡資料、小型のナイフ。そして最後のポーションが一本。

 ふたりはランタンが照らす明かりの下、持っているものを床に広げて見下ろした。

 沈黙が少しだけ流れて、先にトレミオルが口を開く。


「まあ、朝までは問題ありませんよ。この辺りに魔物はいないし気温も安定しています。一晩ここで過ごしましょう」

「うぅ~……本っ当にごめんなさい……」

 エリアーテはぺたりと座り込んでうなだれた。

「ケガがなくてよかったですよ」

 トレミオルが穏やかな口調で言うと、彼女は顔を上げて小さく笑う。

「…もう、先生は優しいな。許してくれるし、私を庇ってくれて」

「いやぁ、引き上げられなかったのだから面目ない」

 彼は恥ずかしそうに頭をかいた。長めの前髪がふわりと揺れた。


(先生は危なっかしいなんて、私、バカなこと言っちゃった。こんなに頼れるのに)


 エリアーテの胸に確かな安心感が広がっていた。

 先生と一緒なら大丈夫と、心からそう思える。



「ねえ先生。あれ…なんでしょうね? 祭壇?」

 黒い石材で形作られた棺にも似たそれは、部屋の中央にぽつんと据えられていた。興味を惹かれたエリアーテが歩み寄る。

「これ、文字かな。何て読むんだろう?」

 遺跡の文字には呪文が織り交ぜられていると、以前トレミオルが言っていた。その知識を持たないエリアーテにはひと文字も読むことができず、彼女は首をかしげた。

「どれどれ……」

 トレミオルも祭壇へ歩み寄る。そのとき、空気がわずかに冷えるような感覚を覚える。

 その気配を不審に思いながら、祭壇の文字へと視線を落とした。行を追うごとにその表情が険しくなっていく。

「さっきの崩落でちょっと壊れちゃった…? これも私のせいかなぁ、うぅ…」

 眉を下げたエリアーテが、申し訳なさそうに祭壇に降りかかった砂埃を手で払いのけていった。


 その瞬間。

 急に辺りが薄暗くなる。

 ――いや、暗くなったのではない。ふたりは黒い霧に囲まれていた。


「――私を眠りから目覚めさせたのは、お前か?」


 トレミオルでもエリアーテでもない、いるはずのない三人目の声が低く響き渡った。

 黒い霧が祭壇の上に集まり、おぼろげに人の形を作り出す。


「な、なになになに!?」

「エリアーテさん! 下がって!」


 エリアーテを後ろ手に庇いながらトレミオルがその影を見上げる。

 祭壇の文字から、彼にはいち早くこの者の正体が分かっていた。

 ――そして今、大変危機的な状況にあるということも。


「月の光に触れるのは何百年いつぶりだろう。良い夜だ」

 黒い霧がざわざわとうごめいた。表情がないのに分かる、笑っていると。

「かぐわしいな。美味そうな生娘だ」

 影はエリアーテに狙いを定める。


「私を呼び覚ました褒美に、お前の血をもって力を取り戻すとしよう。満月の夜に復活の祝杯まで揃っているとは気が利いている」

「ひぃ!? ま、魔物!?」


(やはり、こいつは”吸血鬼”!)


 トレミオルは、自身の持つ考古学の知識を紐といて答えを探す。

(遠い時代に人から魔へ存在を変えた者。ここは”いにしえの吸血鬼”を封じるための部屋だったのか…!)

 墓穴じみた構造にも、今、納得がいった。

 そもそも人が出入りすることなど想定していない、この者を永遠の眠りにつかせるための場所だったのだ、と。


「満月が天の極みへと昇りつめたとき――お前は私の贄となる」


 黒い影が楽し気に揺らめき、予言めいた言葉を紡ぐ。

 絶対的強者が獲物をなぶる瞬間を、心底楽しんでいるようだった。

「怯えるな。私に身を委ね、私の渇きを癒すがいい。その血を啜りながら存分に可愛がってやろう」

 最後に高らかな笑い声を響かせ、吸血鬼の影は煙のようにかき消える。

 何事もなかったかのように静寂が戻り、しかし、青ざめた表情のふたりだけが立ち尽くしていた。


「……なんてことだ……」


 その静寂にようやく響いたのは、辛うじて絞り出されたトレミオルの言葉だった。

「吸血鬼が封じられていたなんて…封印の一部を解いてしまったのか」

「あ…あれは吸血鬼なんですか!? わ、私の血を吸うって言ったんですか!? どうしましょう!? どうなるんですか!?」

「天の極み…もっとも月が高くなる時間…」

 エリアーテは訳も分からず慌てふためき、トレミオルは空を見上げる。


「……月が昇り切るまでがタイムリミット……」

 はるか上空の満月が、無力なふたりを見下ろしていた。



「私、死んじゃうんですか!?」

 涙目のエリアーテの問いかけに彼が答える。

「いえ…恐らく死にはしません。逆に死ねない体になってしまうはずです」

「え? え?」

「吸血鬼は気に入った者を眷属にすることがあります。眷属化されればエリアーテさんは老いることも死ぬこともなくなり、永遠に奴の奴隷になってしまう」

「はぁ!? 永遠に奴隷!? 嫌です絶対! 死んだ方がマシです!」

 エリアーテは絶叫する。無理もないことだった。あまりにも突然に無情な未来を告げられたのだから。

 トレミオルのこめかみを汗が伝った。


「……助けは来ない。日が昇らないと脱出もできない。……くそッ!」

「あばばばばば」

「…すみませんエリアーテさん。こんなことに巻き込んでしまって」

「わ、私が! こんなところに落っこちたから! ごめんなさいごめんなさいぃ!」

 エリアーテは可哀想なほどに震えてしまっている。トレミオルはその小さな肩を見つめていた。


(方法はないのか? 本当に?)

 脳をフル回転させ、置かれた状況の中で思考を巡らせる。

(月が昇りきるまで恐らく……三時間程度。それまでにここから脱出するには――)


 壁際へ駆け寄りその表面を撫でた。どこにも取っ掛かりになるようなところはない。

 そのまま上を見上げる。とても……届かない。

 辺りを見回しても、何度考えても。

 ”魔道具が使えるようになる朝を待つしかない”という結論に、無情にも行き着いてしまうのだった。


 何もかも、タイミングが悪かった。


 魔道具のマナが溜まるのは朝頃で、他の魔道具は地上の拠点に置いてある。一日戻らなければ助けも来てくれるだろうが、それを待つ余裕はない。あとたった三時間しかないのだから。

 そして今日が満月というのが、最も最悪だった。

 魔物の力を高める満月の光をひび割れた祭壇に与えたことで、封印が一部解けてしまったのだろう。

 きっと満月でなければ反応しなかった。この辺りに魔物はいないからと、こんな日を選んでしまった自分が迂闊だった。


 満月が頂点にさしかかった時、魔力を最大に高めた吸血鬼は恐らく実体を成す。

 その時間はごく短いだろうが、武闘派でなく魔道具も持たない自分が吸血鬼と対峙して、エリアーテを守り切ることは不可能だ。

 あっという間に彼女を奪われる未来しか見えない――。

 トレミオルはギリッと歯を噛みしめた。



 ……ならば、自分ができることは。



 トレミオルは、手を合わせて必死に祈るエリアーテへ視線を向けた。

 突然人生の岐路に立たされた彼女にこれから告げる、もうひとつの残酷な選択肢。

 思いついてしまった自分に腹が立つ。

 こうなったのはこの場所に調査に来た自分の責任だ。しかしその責任を、これから彼女に取らせようとしている。なんとむごいことだろう。

 トレミオルは拳を強く握りしめて、静かに呟いた。


「……エリアーテさん。ひとつだけ、あなたが助かる方法が……あります」

「ふえ?」

「………」

「助かるんですか? 奴隷にならないで済むんですか!? そ、その方法にしましょう!」

 一筋の光を見つけたエリアーテが彼の手にすがりつく。その健気さに、さらにトレミオルの心が痛んだ。


「……でも、その……」

「? どうしたんですか?」

「いえ、……きっと、あなたには辛いことです」

「そ、そんなに大変なことを? 死ぬよりも、奴隷になるよりも大変なんですか?」

 再びエリアーテの顔が青くなる。トレミオルは慌てて言葉を続けた。

「ど、どうでしょう。そこまでではない…のか? いや、女性にとっては……」

「???」

「僕しかいないので、選択肢もなくて……しかし……」

「さっきからどうしたんですか、先生?」

 普段ならエリアーテのどんな問いかけにもよどみなく答えてくれるトレミオルが、これまで見たことがないほどに歯切れの悪い反応をする。なかなかエリアーテと目を合わせようとしない。



「……大変不躾なのは承知ですが……必要なことなのでお聞きします」

 しばらく黙り込んでいた彼が一度深呼吸をして、口を開いた。


「エリアーテさんは、これまでに、その……男性経験は、ありますか?」

「へっ!?」


 静まり返った遺跡の奥、月明りの下。

 静寂の中に、エリアーテのただ一音だけが響き渡った。


「恐らく、ない……ですよね?」

 彼女の真っ赤な顔を答えとして受け取り、トレミオルが続ける。

「奴はそれを見抜いていた。吸血鬼は、処女の血を飲むことで強大な力を得ます」

「しょ、処女の血!?」

「人の血を糧とする吸血鬼ですが、特に処女の…純潔な乙女の血は至上のご馳走です。そして強力な魔力の糧となる。満月の光と合わせれば、恐らく封印すらもはねのけてしまうほどに」

「ふ、ふむ…」

 衝撃の大きさに話が全然入ってこないが、エリアーテはとりあえず相槌を打つ。

「奴は満月が頂点に達するその一瞬、わずかな時間だけ実体を成せるのだと思います」

「は、はい」

「そしてそのタイミングであなたの血が捧げられれば、強大な魔力を得て封印は完全に破られ、奴は蘇ってしまうんです」

「は、はい。えっと……つまり?」

「……つまり……」

 トレミオルは視線を落とし、唇を噛んだ。

 そしてこの話の核心であり、なにより残酷な事実をゆっくりと紡いでいく。


「今のあなたの血は、吸血鬼にとって特別な意味を持っています。逆に言えば、その条件を崩してしまえば奴は復活できない。……あなたが、純潔でなくなる必要が、あるんです」


 斜めに差し込む月明かりの下。

 トレミオルは、優しく、分かりやすく、丁寧に。

 逃げ場のない現実を伝えた。





「…………え?」


 エリアーテがその意味を理解するために、少し時間が必要だった。

 そして、ハッと顔を赤らめて俯く。

 彼女の髪が、暖色のランタンに照らされて淡く透けている。

 満月の夜でも太陽のように輝く彼女のポニーテールが眩しくて、トレミオルは目を細めた。


 少しの沈黙が続いて、最初に音を発したのは、かすれ消えそうな声だった。


「……それって、あの……あの……」

「……はい」

「私と、先生、が……?」

「……はい、そうです」


 その言葉に、はじかれたようにエリアーテが顔を上げる。

 うるんだブラウンの瞳と深い緑の瞳が、引き寄せられるように重なった。

「あ……っ」

 自分をまっすぐにとらえる瞳に、エリアーテは思わず声が漏れ、半歩だけ後ずさった。


「あなたの気持ちを尊重します。どうか、選んでください」


 選んでください? この選択肢を選べ、ということ?

 それとも、死や、奴隷の選択肢を?

 そんなのあり得ない。私は喜んで先生にこの身を捧げる。


 だって、私は、先生を―――


「……ッ」

 エリアーテは胸に両手を当てて、浅く呼吸を繰り返す。トレミオルは黙ってその姿を見つめていた。


 エリアーテの気持ちは決まっていた。

 今決まったのではない。この気持ちは、もっとずっと前からあった。

 不注意で落下してしまったエリアーテを身を挺して庇い、一言も責めずにいてくれて。

 資料を見つめる真剣な瞳は、宝石のように澄んでいて。

 生徒達に取り囲まれて、その輪の中心でいつも笑っていて。

 研究に片思い、なんてズレた発言をよくしてて。

 それよりもずっと、ずっと前から、想いを寄せていたのだから。


 だからあとは、覚悟だけ。

 こんなところで死にたくない。

 永遠に吸血鬼の奴隷なんてもっとイヤ。


 ――そして何より、先生に触れられたい。



「………わかりました」



 強く握りしめた指先は冷え切ってしまっていた。

 その熱はきっと、火が出そうなほど熱くなった、耳と頬へ回ってしまったのだろう。

 下がった半歩を、彼に向けて踏み出した。


「すみません……僕が、僕がこんな場所に――」

「先生、謝らないでください。先生が悪いなんて、そんなの絶対違います。これも私のためにって、ちゃんと分かってます!」


 トレミオルの謝罪の言葉が恐ろしかった。エリアーテを拒絶しているように思えてしまうから。

 だから彼女は彼の謝罪を否定する。

 心臓は破裂しそうなほど、ずっと早鐘をうち続けていた。


「先生は、あのっ、先生は……」

「? どうしました?」

「……私は、大丈夫です」

「……わかりました」

 言い淀むエリアーテに、それ以上、トレミオルが踏み込むことはなかった。


「つらいと感じたら、言ってください」


 気遣うトレミオルの言葉に、エリアーテは小さくうなずく。

 それが、最後の確認だった。



 ふたりの影が、ランタンの明かりによって壁面に揺らめく。

 周りの音は聞こえない。何も。

 エリアーテの肩に触れたトレミオルの手に、彼女のかすかな震えが伝わった。


(……私、本当に先生と……)


 トレミオルの細く長い指が、そっとエリアーテの耳を撫でる。

 すでに赤くなっていた彼女の耳は、その刺激でさらに熱を帯びた。


(私でいいんですか? 先生は嫌じゃないんですか?)


 そんなことを口にできるはずもない。いまの彼女にとって一番恐ろしいのは、彼の本心を知ることだった。

 助けるために仕方なくするのだと――もしそんな本心を知ってしまったら、いっそ死を選ぶ方がましかもしれない。

 だから何も聞かず、何も考えず、今はただ身を委ねることを選んで、唇をキュッと引き結んだ。


「……髪を、おろした方がいいかもしれません」


 彼はどこまでも、エリアーテをいたわる。

 その言葉の意味するところを理解して、エリアーテの鼓動がひと際強くなった。

 華奢な指で髪をほどく。ひとつ、身を暴かれた気持ちになる。

 それだけでこんなにも気持ちを高めてしまったら、私はこれからどうなってしまうんだろう。


 ぎゅっと目を閉じた。

 視界を閉ざしたぶん、他の感覚が研ぎ澄まされていく。

 衣擦れの音。彼の呼吸音。そっと触れる体温。肌をかすめる吐息。

 ――熱い。どこもかも、すべて。


(わかんない……頭がまっしろで、なにも……)


 頬に唇をよせると、小さな肩がびくりと震える。

「…大丈夫ですか…?」

 耳元で、低く優しくいたわる声が心地よかった。


「先生…名前を呼んでください」

「……エリアーテ」


 やがて重なったぬくもりが、ためらいも戸惑いも包みこみ、ふたりの境界を溶かしていった。




 ひらけた天井から見える月の角度が、頂点を目指してさらに緩やかになった頃。

 エリアーテは、どこか夢見心地の気分だった。


 先に服を整え終えたトレミオルが、不安そうな面持ちで彼女を見ている。

 エリアーテは服のボタンを留めようとするが、指がもつれてしまってうまくいかない。

「手伝います」

 つい先ほどまで、エリアーテに未知の感覚を教えていた彼の手が、彼女の服を優しく持ち上げてボタンを留めていく。


 体の下に敷かれた彼のローブを返そうと、エリアーテは立ち上がろうとした。しかし足に力が入らず、ぺたんと手をつく。

「…触れますね」

 トレミオルはそれだけを告げて、エリアーテを横抱きに抱え上げた。

 ふわりと視界が高くなる。

「ふあ…せんせ…」

「大丈夫ですか? …いや、大丈夫ではありませんよね。体を休めてください」

 トレミオルは部屋の壁際に彼女をおろし、ローブやバッグを回収して彼女の隣に戻ってきた。

 ローブをはたき、エリアーテに優しくかける。

 彼女は再び、彼の香りにいだかれた。


 エリアーテの心が澄み渡っていたのは、これでもう大丈夫という安心感からだろうか。愛しい人と結ばれた喜びだろうか。

 閉じ込められているはずのこの空間も、今は心地いい。


「先生は…大丈夫ですか?」

「僕は大丈夫ですよ」

「痛くないんですか?」

「ええ。どこも」

「どこも痛くないんですか? …そうなんだ…」

 エリアーテは上着を引っ張りながら身を縮こまらせる。トレミオルはその姿を見つめて、痛ましそうに眉根を寄せた。

「辛いですよね…。すみません、ポーションを飲むのはもう少し待っていてください」

「…? はい…」

 よく分からないが、エリアーテは大人しくうなずいた。

「少し休みましょう。もう、大丈夫だから」

 エリアーテは彼に促されるままその肩にもたれかかって、夢見心地で、瞳を閉じた。





 トレミオルが空を見上げる。

 雲一つない空が満天の星を抱えている。月はほぼ真上にあった。


「……そろそろか……」


 懐中時計に目をやって小さく呟き、隣のエリアーテに声をかける。

「エリアーテさん、ひとつお願いがあります。すみませんが少し痛いのを我慢してもらえますか?」

「? はい、何をすれば?」

 エリアーテは小首をかしげて彼を見上げる。

「少し指先を切って、僕の手に垂らしてほしいんです」

「ひえ! 指ですか!? …ひ、必要なんですよね、わかりました」

「何度も痛い思いをさせてしまってすみません」


 深呼吸をしたエリアーテが、震える手で自らの指にナイフを押し当てる。

「……ッ!」

 細い指から鮮血がしたたり落ち、トレミオルはそれを左手で受け止めて握りしめた。

 満月が頂上に達する。

 月の光が祭壇を照らし、男の声が低く響き渡った。


「フフフ……力が満ちる……。待たせたな、乙女よ」


 黒い霧が祭壇の周囲に漂い始め、人の輪郭をゆっくりと形作っていく。今そこに、絶望が姿を現そうとしていた。

「さあ、その清らかな血と身体を私に差し出すがいい。恐れることはない。痛みなどすぐに快楽へと変わる」

 トレミオルがエリアーテを背後に庇う。

 彼女は顔を青ざめさせ、背中越しにトレミオルを見上げた。表情は読み取れない。代わりに、彼の静かな声だけが響いた。


「グリーヴァ=モルデイン卿」


 トレミオルの声が響くとともに、影はぴたりと動きを止めた。


「……なんだと?」

「あなたは望んで吸血鬼となったのですね。稀有な例だ。あなたの封印と同時に、過去に眷属とした者達は無事に解放されたそうですよ」

 場の支配権が吸血鬼からトレミオルへ移った瞬間を、エリアーテは訳も分からずただ見守っていた。


「せ、先生…? どうしてそんなことを…?」

「すべてそこに残されています」


 すっと指さした先は、黒い霧が形作る吸血鬼の影……ではなく、その足元の祭壇。

 エリアーテにはひとつも読めない文字が並んでいた、あの祭壇だった。

 影からは表情をうかがえないはずなのに、明らかに動揺しているのが分かる。

 そしてひと際大きいうねりとともに、思いがけない言葉を発した。


「……! 乙女の純潔が失われている!? …くそ、貴様ら神聖なこの場で!!」


 その言葉に、鋭く影を睨みつけていたトレミオルが一瞬目をまたたかせた。

(分かるのか)

 そう思ったが、いや、最初にエリアーテさんのことを生娘と呼んで(みぬいて)いたな、と考えが至る。

 ”神聖なこの場”というのは、魔物である吸血鬼にとっての神聖性がどういうものなのか分からないが、よくも人の枕元で、という意味なのかもしれない。

 ひと呼吸置いて、トレミオルが淡々と答えた。


「その点は、すみません」

「お前の純潔も失われているではないか! 貴様らの無垢を喰い散らし、永き渇きを癒す極上の夜となるはずだったのだぞ! まぐわったのか!!」


 その言葉にトレミオルの表情からすっと温度が消えた。冷たい視線で影を見据えて言葉を返す。

「……それはまた、ずいぶんと守備範囲の広い」

 想像以上に危機的状況だったと知り、さすがに背筋に冷たいものが走った。


(…純、潔? ……先生も初めてだったの!?  あれで! !??)

 吸血鬼の衝撃的な発言で先ほどまでの出来事が鮮明に思い出され、エリアーテの頬が一気に紅潮する。

 幸い彼らは彼女の動揺に気づかなかった。特にトレミオルに何か聞かれでもしたら、エリアーテは顔を真っ赤にしたまま返答に詰まってしまっていただろう。

 そしてふと、耳に残った言葉が気になって彼女は口を開く。


「……マグワッタ?」


 そばにいたトレミオルにもその呟きはしっかり届いていた。

 ドキリとしたが、どうやら彼女は言葉の意味を理解しきれず、確かめるように口にしただけらしい。

「もう大丈夫、ということですよ」

 エリアーテを覗き込み、安心させるようににこりとほほ笑んだ。黒髪がふわっと揺れる。緊迫の場面だということを一瞬忘れさせるほど穏やかな、いつもの彼だった。

 そのほほ笑みにエリアーテはほっと息をもらす。

 先生が言うのだから間違いない。本当にもう、大丈夫なんだ、と。

「そうなんですね」

 そして勝利を確信した彼女は勢いよく指をさし、高らかに宣言した。


「そうだ吸血鬼! 私はマグワッタ! 諦めなさい!」

「余計なことを言った僕が悪かったです」

 トレミオルはほほ笑みを崩さぬまま、教育者としての至らなさを反省するのだった。


「……あまり頭の回る方ではなさそうだな……。しかしひとまず眷属にして、封印を解く足掛かりと――」


 吸血鬼が思わず呟いたその言葉を、トレミオルは聞き逃さない。祭壇へ歩みを進めるその手にはナイフの刃が鋭く光っていた。

「そうはいきませんよ。彼女のことは僕が責任を取ります。あなたはそのまま眠り続けてください」

 そう言って彼は、先ほどエリアーテの血を受けた左手を迷いなく切り裂く。

 あふれる血をひと振り黒い霧へと浴びせかけ、さらに祭壇へ手をかざし、その血をボタボタと滴らせた。


「!? ぐあああぁぁぁっ!! き、貴様!?」


 霧が激しくうねり、血を避けるように暴れ狂う。

 巻き起こった風がトレミオルの髪をふわりと舞い上げ、冷えた瞳が霧の奥をまっすぐ射抜いた。


「交わりを果たした男女の血――古代では、吸血鬼を退ける“反祝福アンチ・ブレス”として扱われていました。清らかな乙女の血を求める吸血鬼に対して、もっとも強い拒絶の象徴になる」

 その瞳は冷たいまま、口角だけを持ち上げて薄く笑う。

「……よく効くでしょう?」


「ぐッ、うぐぅ…ッ! 反祝福…ッ!? くそ、また…!」

「過去にもこの血を受けたのですか? あなたの軌跡に少し興味がわきますね」

 トレミオルが拳を握りしめるとボタタッと血が滴った。


「目覚めを妨げられるなど…なんという屈辱だ……ッ! 貴様ら、何をしに来た!? 私を討伐に来たのか!!」

「ただの遺跡調査ですよ。眠りを妨げたのは申し訳ない」

「ぐああぁぁ……! 月が過ぎていく……くそッ、くそおぉ……ッ!!!」


 絶叫は夜空に溶け、吸血鬼の影は霧散し、頂点を通り過ぎた月明りに消えて行った。

 遺跡は再び、静寂に包まれる。



「……ふぅー……」



 静けさにまず響いたのは、トレミオルの深い深いため息だった。

 エリアーテがおずおずと、様子をうかがうように声をかける。

「…封印…できたんですか?」

「いえ、封印には別の手順が必要です。僕にはできません」

 振り返ってほほ笑んだのは、普段通りの彼だった。

「今できるのは一時的な無力化だけです。でもこれだけ反祝福の血を浴びればしばらく動けないでしょう。少なくとも、次の満月までもう何もできないはずですよ」

 そう言いながらトレミオルはハンカチを取り出し、血まみれの左手に巻いていく。巻き付けたばかりの布の白に、じわりと赤がにじんだ。


「!! 先生大変! ポーションを飲んでください!」

 一連の出来事が衝撃的すぎて一瞬忘れてしまっていたが、深い傷を負った彼にエリアーテが慌てて最後のポーションを差し出す。

「さあ早く!」

「僕は大丈夫。あなたが飲んでください。まだ体がつらいでしょう」

 トレミオルは差し出されたポーションを無傷の右手でそっと押し返す。そして視線を伏せ、謝罪の言葉を口にした。

「あなたの体を犠牲にしたんです。謝っても謝りきれない」

「え?」

「我々の血がこの場での唯一の対抗手段でした。そのためにあなたには大変な負担を強いてしまった。……取り返しのつかないことを……かけがえのないものを奪って」

「犠牲? 奪う? 違います! そんなこと思ってない!!」

 トレミオルの言葉を遮るように、エリアーテの声が響いた。


「エ、エリアーテ…さん?」

「だって、私!」


 エリアーテは頬を赤らめ、正面からまっすぐに彼を見つめる。

 戸惑いの色を浮かべた彼の視線と交わるが、エリアーテは決して逸らさない。

 音が遠のき、まるで世界に二人きりになったかのような感覚が満ちていく。

 ――伝えよう、この人に。

 エリアーテは息を吸う。

 そのとき、視界の端に血に染まった彼の手が映り込み、その赤にハッとして現実へ引き戻された。


「それよりもポーション! こんな傷ほっとけるわけないでしょう! お願いですから早く飲んで、私はいいから! 飲んでくれないなら――」

 先ほどから彼女の気迫に押されて後ずさるトレミオルに、大きく一歩詰め寄る。


「無理やりでも、口移しで飲ませますよっ!?」


 自身の傷よりもエリアーテの体を案じる彼に、どうしてもポーションを飲ませたくて必死だった。

 トレミオルは一瞬呆気に取られ、目をまたたかせる。そして――


「……ふふふ、あははは! そう来ましたか!」


 彼が珍しく声をあげて笑った。

 彼女のあまりにも大胆な発言と、頭にまで響く左手の痛み、そして吸血鬼を退けた興奮が入り混じったせいなのかもしれない。

 彼にとっても、命がけの出来事だったのだから。


「名案ですね。僕も同じことをするかもしれませんよ?」


 ぐっと間近で彼女を見下ろしながら、トレミオルはそう告げた。

 エリアーテは彼を見上げ数度まばたきしたあと、ボッと顔を赤くする。この距離でのその言葉は、彼が今にも実行するのでは、とたやすく想像させた。

「ふふふ、わかりました。じゃあ半分こしましょう」

 トレミオルが笑顔でポーションを受け取り、コクコクと喉を鳴らす。そしてエリアーテに瓶を差し出した。


「……先生。半分以上残ってますけど」

「さ、飲んで。それとも本当に口移ししますか? いいですよ」


 彼はニコニコと楽しそうに、しかし有無を言わせぬ圧を放っている。

「エリアーテさんがいい方法を教えてくれましたからね」

 …余計なことを言ってしまったかもしれない、と思いながら、エリアーテは観念して残りのポーションを飲み干した。

 身体の痛みと指の傷が消えていく。でも、すべてではない。

 ほんのわずかなその痛みは、傷ではなく証だから。

 エリアーテはそれが残ってくれたことに、ほっと息をついた。



 痛みが取れて緊張がほぐれたら、なんだかどっと疲れて、今は少し眠い。

 その様子を見て、トレミオルは壁へ腰かけて自分の隣を促した。

 隣に座って見上げると、空には美しい月と満天の星空が広がっている。

 心地よい眠気を覚えながら、エリアーテがぽつりと呟いた。


「……月、きれいですね……」

「ええ」

「さっき、流れ星を見たんですよ」

「そうでしたね。願い事はできましたか?」

「うーん…できなかったけど、いいんです。明日から頑張ります」

「それはいい。僕に手伝えることがあれば頼ってください」

「……ふふ…んふふふ……。ふあぁ……」

「よく頑張りましたね。さあ、おやすみなさい」


 彼の肩に頭を預けてあくびを一つ。

 まどろむうちに、エリアーテは眠りに落ちる。

 目覚めたときにはおぼろげになってしまったけれど、夢の中でも彼に会えた気がした。



 爽やかな朝日の中、予定通りに魔道具のマナが充填され、ふたりは無事に地上へ戻ることができた。

 朝ごはんをきちんと食べて、支度を整えて帰宅の途につく。終わってしまえば、いつもの遺跡帰りと変わらない。

 一生忘れられないような出来事が、いくつもあったのだけど。

 町に戻り馬車を待っている間、トレミオルが言った。


「あの祭壇は、吸血鬼の専門家に任せることにします。太古の時代には封じることしかできなかった吸血鬼も、現代なら対処できるんです」

 建物が立ち並び人々が行き交う町の景色に、トレミオルは視線を向ける。


「――遠い昔の人々が、知識を繋いでくれたおかげで」

 緑の瞳はふたつの時代を見つめ、遠い過去への敬意に満ちていた。


「専門家の彼らが奴の毒気を抜いてくれるはずです。再び封印されるかは……奴次第ですね」

「そんな専門家がいることにびっくりです」

 エリアーテの言葉に、ふと仲間たちの顔が思い浮かぶ。


 日を嫌う吸血鬼たちのぶん俺が日焼けをするのだと、独特な感性を語る吸血鬼の専門家エドガー。

 優秀な魔導士兼売れない作家業をしながら、「魔導士は副業」と豪語するルーシィ。

 未知の魔法のためなら北の果てから南の果てまで飛び回り、毎度違う地域から手紙が届くキラン。

 学生時代からの付き合いであるそんな変わり者たちの顔がふと思い出され、思わず苦笑する。


「いろいろな知り合いがいるんですよ。奇人変人ばかりですが」

「先生も含めて?」

 いたずらっぽい笑みでエリアーテが問いかける。

「僕を含めるなら、助手であるあなたもそうなりますよ?」

 その挑発に応じるように、トレミオルもいたずらっぽく言い返した。


「んー…いいですよ。私、先生のこと好きですし!」

「……んん?」

「愛してるという意味で!」

「……んん!?」


 想定外の展開に、トレミオルがはじかれたようにエリアーテを見る。



「気づいていませんでした?」


「……………はい…まったく」



 ふたりの視線が交わった。

 エリアーテは、目を丸くする彼を愛おしく見つめる。愛おしくて、たまらない。

「……僕などを好む女性がいるなんて……想像も……」

 トレミオルは口元をおさえて視線を伏せる。

 その頬も耳も、淡く朱に染まっていた。


「体を重ねたからじゃないですよ。その前から好きだったんです」


 彼女もまた頬を染めながら、どこまでもまっすぐな愛の告白をする。明るいオレンジの髪がの光に透けて、ポニーテールが揺れた。

 自分とは何もかも正反対で、心をも焦がすほどに眩しくて。

 彼女は太陽の化身なのかもしれない、と、トレミオルは目を細めた。


「先生にも分からないことがあるんですね?」

「ありますよたくさん。……あなたのこととか、ね」

 トレミオルが小首をかしげてほほ笑む。

 エリアーテはその言葉にわずかに思案するような素振りを見せ、やがて満面の笑みで応えた。


「今は秘密にしておきます。私の気持ちに応えてくれるなら、先生が暴いてください」


 かわいい助手からの挑戦状に、トレミオルは一瞬目を見開く。

 そしてニヤリとほほ笑んだ。緑の奥に、炎を灯して。


「……いいですよ。本気でいきますからね?」



 エリアーテはまだ知らなかったのだから仕方ない。

 トレミオルの探求心は、未知に挑むときこそもっとも燃え上がるということを。

 その熱がいま、彼の理性の檻をも溶かし始めたということを。


 そうして目覚めた感情が、どこへ向かうのかを思い知るまで――あと、少し。



 - fin -

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