第63話「大輪と散る」
雨は、しとどに降る。
雨に閉ざされた少年と、
雨に打たれた女の決闘は、終わりを告げる。
ああ、なぜ――こうなってしまったのか。
罪とは、何だ。罰とは、何だ。
しかして時は過ぎる。残酷なほどに。
そして、そんな悲劇もひっそりと幕を閉じ、
ただ、空には大輪が咲いては散るのみ……。
雨と踏切の音だけが、鳴り続けていた。
目の前に、一人の女性がいる。
彼女は濡れていた。
それも、たっぷりと――ずぶ濡れに。
口元から血を滴らせながら、彼女は何事かを呟いている。
ぼくも、それに何か返したらしい。
けれど、何を言ったかはもう覚えていない。
彼女の目から、光が少しずつ消えていく。
柔らかな漆黒が、その瞳を覆っていった。
ふと、ぼくの手に温いものが流れていることに気づき、視線を落とす。
彼女の左脇腹に、赤い刀身が深々と刺さっていた。
彼女が着ていた黒いチャイナドレスのせいで、すぐには分からなかった。
だが、刀身から零れ落ちる血の量が――彼女の死を、ありありと告げていた。
雨が降っていた。
それでも、この手に流れ落ちてくる血は、雨でさえ洗い落とせそうにない。
ふと、彼女の瞳を見る。
漆黒の奥に、わずかな光が見えた。
確か、パンドラの箱だったか。
少女パンドラがこの世の絶望を閉じ込めたとされる箱を、開けてしまった話。
箱を開けたせいで世界は絶望に包まれた――とされるが、あの話には続きがある。
絶望が抜け落ちた箱の底に、ひとつだけ光るものが残っていた。
それが、絶望の中に取り残された“希望”だったのだと。
どうでもいいはずの逸話が、ふと頭をよぎる。
だがその瞬間、彼女の瞳には確かに“希望”があった。
――後になって気づいた。
あれは、彼女の瞳に映った“ぼく”だったのだ。
そんな中、真っ赤に染まった彼女の口が、にっと笑う。
瞬間。
彼女の背後に、灰色の影が迫っていた。
どうやら、彼女はこの瞬間を待っていたらしい。
点火針を引き抜こうにも、深々と刺さったそれは――彼女の手が、柄元を押さえつけている。抜けない。
死灰が、最後の雄叫びを上げる。
それは主人の死を悲しんでいるのか。
それとも、己が命を賭して放つ一撃への執念なのか。
ぼくには判然としない。
だが、はっきりしていることがある。
ここで自分が死ねば、何もかもが水泡に帰す。
囚われた人々も――おそらく助からない。
それだけは、何としてでも避けなければならなかった。
でなければ、なぜ“罪”を冒してまで勝ったのか。
その意味すら、消えてしまう。
そんな思いが刹那をよぎる中――ぼくは、驚くほど冷静だった。
彼女との戦いの中で、ぼく自身の“深化”が、さらに“進化”を見せようとしていることに、歓喜していた。
そして、それを実行するだけの覚悟と決意が、ぼくにはあった。
死灰の鋭い一閃が、振り下ろされようとしている。
もはや一刻の猶予もない。
――通常なら、今際の句を詠んでもおかしくない。
だが、この身に流れる紅蓮の炎が、それを許さない。
荒れ狂う炎をさらに研ぎ澄ませ、点火針の刀身へと流し込む。
この戦いの中で、業火を一定の制御下へ置くことはできるようになった。
それでも、完全とは言いがたい。指向性は与えられるが、放ったものを最後まで握り続けることはできない。
――だが、これはどうだ。
点火針へ炎を流し込んだ瞬間、あれほど強烈だった奔流が、一気にこちらの意志へ従い始めたではないか。
想像した通り。
点火針――いや、“ヴァジュラ”とは己の心を表したものならば、
“深化”で生じたこの業火もまた、根源は同じ場所にあるらしい。
「一緒に、死んでちょうだい?」
澪音は、朽ちゆく意志へ最後の指令を走らせる。
それは愛するカロンへ届き、最後のあがきを放たせようとしていた。
「ならばッ!!」
だが、戦いは無常だ。
彼女の最後の抱擁でさえ、目の前の少年を止めることは叶わない。
和泉の腕に纏われていた紅蓮の業火が、瞬く間に――澪音へ突き立てられた点火針へ流れ込む。
刀身は赤から、燦然と輝くオレンジへ変わった。
一瞬、澪音の視界が光に満ちる。
――ああ、なんて眩しいのかしら……。
眩しさの中で、なおそこに自己を在らせる少年から、目が離せない。
――ああ、そうだったの……。
――これが……これこそが……。
そして彼女は、遠い空を見上げた。
――初恋って、やつなのね。
激しく燃え上がる刀身は、澪音の身体さえ白く灼いていく。
「伸びろ!! 赤い一線――」
そのスパークは、飛び掛かる死灰へ、強烈な終わりを予感させる。
だが、もう誰も止められない。
たとえ、死灰であっても。
死灰が、最後にもう一度、雄たけびを上げた。
この虚しい戦いの終わりを告げるがごとく。
それに呼応するかのように、和泉も叫ぶ。
「――炎上!!」
轟ッ!!!
強烈な火柱が、点火針の切っ先から放たれた。
とてつもない速度で死灰へ刺さり、胴体を容易く貫く。
一瞬、虚無が広がる世界に、オレンジの軌跡が迸った。
だがそれも、静かに、細々と消えていく。
やがて高く伸びた火柱は点火針へ還り、刀身は銀へ戻る。
和泉は、すっとその刃を澪音の身体から引き抜いた。
主人が崩れ落ちるのに合わせ、死灰の身体も静かに霧散していく。
ザッ――。
倒れかけた澪音の身体を、和泉は抱きかかえていた。
和泉が抱えたその腕から、黒々とした血が流れ落ちていく。
地面のバラストは、血と雨で瞬く間に茶色から黒へと染まっていた。
「ま、さか……あんな、おくの……手が……あった、なんて……ね」
絶え絶えに、澪音は言葉を紡ぐ。
「俺も、今の今まで、あんなことができるなんて知らなかったよ」
和泉は、優しく返す。
澪音はそれを見つめ、ふっと笑った。
雨は降り続け、踏切の音は鳴りやまない。
澪音は、血に濡れた手をなんとか持ち上げる。
もう力を入れることすら困難だろうに、それでも震える指が和泉の頬を這う。
「……悲しい、ね」
すっと、その手が落ちた。
和泉の頬に血の軌跡が残る。
だが彼は意に介さず、ただ腕の中で冷たくなっていく彼女を見つめていた。
「爸爸……妈妈……卡隆……」
やがて、彼女の目から光が完全に消え去る。
和泉はポケットから、オレンジの花が刺繍されたハンカチを取り出し、血に汚れた彼女の顔を拭った。
「これ、汚れたから……また洗ってから返すな」
その言葉は、もう誰にも届かない。
カン……カン……カン……。
雨音の中、踏切だけが規則的に時を刻む。
そして、かろうじて残された踏切の片隅に――
一輪のオレンジのマリーゴールドが、優しく咲いていた。
* * *
――雨と踏切の残響の中、世界は静かに“外側”へ引いていった。
和泉は、血に濡れたシルクのハンカチを再びポケットへしまい、歩き出す。
ザーザーと降り続く雨が、彼女の血だけでなく、和泉の血さえ洗い流していく。
ふと、身体へ意識を向けた。
全身が、ボロボロだった。
さきほど喰らった脇腹の傷も再び“開き”、赤黒い血をだらだらと滴らせている。
背や頬――身体のあちこちからも、おびただしい血が流れていた。
精神も、もはや限界だ。
「こんな……無茶をして……。
へッ、やっぱり俺も師匠とよく似てりゃあ……」
瞬間、全身の力が抜け落ちる。
視界がぐるぐると回り、糸の切れた操り人形みたいに、地面へ倒れ伏した。
もう、痛みすら鈍って感じない。
思考も追いつかず、ただ――血の温かさに包まれていた。
視線の先。
同じく倒れた澪音の姿が見える。
――と。
先ほどまで倒れていた澪音が、何事もなかったように、すっと起き上がったではないか。
和泉は、それを漠然と見ているしかなかった。
括られていた髪がほどけ、黒髪が雨の中で静かに広がる。
そして彼女は、“真っ赤な傘”を差していた。
「あ~あ、期待外れだったよ。
あの子には、さ」
姿形は、たしかに澪音そのものだ。
だが声色も、雰囲気も――何より、赤い瞳が“彼女ではない”ことをありありと証明していた。
“真っ赤な傘の女”が、ゆっくりと近づく。
「ま、でも。これで君を“彼”の元へ連れて行ける。
御の字ってところかな?」
女は跪き、和泉へ傘を差し伸べる。
女――“アカネ”は、澪音の瞳でにっと笑った。
だが、それは彼女の笑みとは比べるまでもない。
人を馬鹿にした、嫌な眼だ。
――かつて出会った“朱天”のように。
「驚いたかい? ふふ、これもサプライズってやつさ」
あどけない声。
けれど、その奥の無機質な冷たさは隠しきれていない。
「この子に何っの才能もなかったから、すごく馴染みやすかったよ。
それを、この子ったら――自分の力だって勘違いしちゃってさ」
アカネが、にっと笑う。
いや――嗤った。
「痛い、だろ?」
和泉には、目の前の女が何を言っているのか分からない。
だが少なくとも、“彼女”ではない。
彼女の身体を勝手に使い、あろうことか彼女を愚弄している。
和泉の内に、憎悪の火が灯る。
「おやおや? あの子に同情でもしちゃった?
そう、かっかしちゃだめさ」
アカネがすっと、和泉の首筋へ手をかざす。
すると燃え上がりかけた火が、すっと消えた。
「さてと――」
おもむろに襟を掴み、乱暴に引きずっていく。
「す~きです、す~きです、すきだから~」
上機嫌に鼻歌を口ずさみながら、消えゆく線路の上を歩く。
和泉を引きずったまま。
――が、ふと。女が空を見上げた。
「あらら。少しお遊びが過ぎたか――」
スン……。
次の瞬間、雨の中から光の筋が舞い降りる。
和泉を持ち上げていた腕が、その一閃で――音もなく斬り落とされた。
「随分と速かったじゃないか?
え、聖斂隊さん」
いつの間にか、和泉の身体は一人の男に奪い返されていた。
男は間合いを取ったことを確認するや否や、無造作に和泉を後方へ放り投げる。
ずれた眼鏡をくいっと押し上げ、手にしたレイピアの鋭い先端を女へ向けた。
「あまり無駄口を叩くな。
こちらは、お前とおしゃべりをしに来たわけじゃない」
男――聖斂隊副隊長、小水内 悠が毅然と告げる。
その横で、肩まで切り揃えた髪の女性が一歩、構える。
雨に濡れた髪が、わずかに紫を揺らしていた。
「おやおや、釣れないね~」
手首を斬られたとは思えないほど、アカネは涼しい顔で笑う。
斬られた根元から肉が盛り上がり、骨が生え、見る見るうちに再生していく。
――人間、ではない。
再生した指を、真っ赤な唇へそっと当てる。
「ふううぅぅ……」
煙草の煙を吹かすみたいに、指の隙間から息を吐いた。
吐息に混じり、灰色の粒子が舞う。
灰。
それが蛇のように宙をうねり、身を起こす。
「では、せっかくのご挨拶に」
アカネが視線を向けると、灰の蛇は凄まじい速度で飛んだ。
だが小水内は動じない。
代わりに、もう一人の女性――真理が半歩前へ出る。
「我が敵を討て――」
腕に光が灯る。
「顕現――立華鉢頭摩鋏!!」
叫びとともに、銀色の巨大な鋏が現れた。
ザンッ!!
振るう。
灰の蛇は、中空へ霧散していった。
「穏やかじゃないね」
アカネは笑いながら言った。
しかして、その瞳は笑っていない。
緋色の瞳ではあるが、“死者の眼”であった。
色はある。だが本質は暗く、光がない。
「こちらも、相応の準備はしているということだ」
すると周囲を取り囲むように、他の隊員たちが構えを固めた。
この場にいる皆に、雨が降り注いでいた。
誰も何も言わない。だが、目に見えるほどの緊張がそこにあった。
呼吸することすら、はばかれる。
しかし――
「……ふう」
先に動いたのは、アカネだった。
くいっと両手を上げる。
それに反応して、周囲の隊員が一斉に臨戦態勢へ移る。
唯一、動かないのは――正面で相対する小水内と真理の二人だけだ。
「今日は、分が悪そうだ」
アカネはくるくると、手にした赤い傘を回す。
「逃げられるとでも?」
小水内の問いにも、アカネは笑っていた。
「ま、いずれまた会えるだろうしね」
視線が、小水内たちへ。そして、奥の和泉へ向く。
「運命の火は、灯ったのだから」
そう言うと、傘をひらりと前面へ振り回した。
一瞬、赤い傘がアカネの身体を覆い、姿が消える。
瞬間、構えていた隊員たちが飛び掛かった。
だが――。
傘がふわりと舞ったかと思うと、そこに彼女の姿はない。
ただ、隊員たちの刃がバラストを削っているだけだった。
「副隊長!?」
隊員の声。
「逃げられたか……」
小水内はそう呟き、手にしていたレイピアを消す。
「追いますか?」
真理が鋭い目で問う。
「いや。この状況で奴を追うのは危険すぎる。
それに、囚われた人々を救い出すのが優先だ――」
眼鏡の奥の鋭い眼光が、倒れ伏した和泉へ向く。
「兎にも角にも、今は彼の身柄の保護を優先としよう」
真理は同意し、他の隊員へ救助の指示を飛ばした。
「まったく、勝手な奴だ。
どこかの阿呆と、よく似ている」
小水内は少年の背に、かつての“男”の影を重ねていた。
* * *
シンボルタワーでの決戦も終わり、和泉のもとへ――また退屈な日々が戻ってきた。
事件の直後、和泉は聖斂隊の指示で、菩提府が抱える病院へ緊急搬送された。だが主治医も驚くほどの回復速度で、予定より早く退院してしまった。
当然、大塚からしこたま怒られたのは言うまでもない。
大塚の話では、シンボルタワーに囚われた人々も、さらに和泉へ「シンボルタワーへ来い」と伝えた開現師も、なんとか一命を取り留めたらしい。
――しかし、問題はそこではなかった。
正直、和泉は覚悟していた。
自分はもう、開現師として続けられなくなるかもしれない、と。
結果的に被害が最小限で済んだとはいえ、それは“結果”に過ぎない。
自分の行動が褒められたものではないことなど、痛いほど分かっている。
もし、仮に澪音がその気になっていれば、被害者たちは助からなかっただろう。
どうして彼女が彼らを盾にしなかったのか――今となっては、その真意は分からない。
だが、救えたからといって、上層部が今回の件を見逃すはずがない。
実際、上層部は和泉への厳罰に加え、大塚にも監督責任を問う構えだったらしい。
ところが、それは結局うやむやになった。
大塚が言うには、あの“小水内”がこう証言したのだという。
「今回、偶然にも和泉百希夜が現場に居合わせ、敵と遭遇してしまったこと。
さらに、敵の策略により外部との連絡が遮断されかける中で、ぎりぎりのところで上司――大塚玲之へ現在地を送信できたこと。
それにより、我々は速やかに現場へ到着できた」
上層部の一部は小水内へ証言の追及を試みた。
だが逆に「菩提府内部の情報伝達に明らかな不備があったのではないか」と切り返され、それ以上踏み込めなかったらしい。
大塚は言った。
「お前も今度、奴に会った時は礼を言うことだな」
意外だった。
小水内悠――彼は師である笠井とともに、南に師事し、共に修行した仲らしい。
だが、初めて会った時から小水内の笠井への反応はあからさまだった。
冷たいレンズの奥に、明らかな敵意があった。
その弟子である和泉に対しても、彼の態度は冷たいままだった。
それが、まさか彼がそんなことを言うとは――。
和泉は今でも信じられない。
しかし、ともかくだ。
結果として、和泉は仲間との“約束の日”を、こうして無事に迎えることができたのだ。
* * *
「よしっと」
和泉は姿見の前で、出で立ちの最終チェックをする。
今日は、皆で行く花火大会の当日だった。
集合時間には少し早い。だが理恵や杏樹、亜子、花奈たちは、理恵の浴衣を借りるため、少し早めに來瀬川家の離れを訪れている。
しばらく暇ができた――そう思った矢先。
「和泉様」
「おお!? 梓さん、いたんですか」
気づけば、理恵のメイドである藤本 梓が背後に立っていた。
梓は驚く彼を無視して、着物のようなものを差し出してくる。
「これは?」
どうやら、男物の浴衣らしい。
「お嬢様は、他の方々の着付けに付き合われていて手が離せません。
あなたがどのような格好で赴こうとしていたかは知りませんが……」
梓は、じとっとした視線で和泉を見やる。
白のTシャツにジーンズ――和泉はそんな格好だった。
手足の長い和泉なら、ラフでもそれなりに様になる。だが――。
「はあ……」
梓は小さく溜め息をつき、
「せっかく、お嬢様たちを誘ったのでしょう?
そんな格好では、格好がつかないというものです」
「ああ、ありがとうございます」
和泉は受け取り、広げる。
そして、しばし固まり、梓を見やった。
「あの~……これって、どう着るんですかね?」
ぎこちない笑み。
「はあ~……」
梓は大きく溜め息をつくと、さっと手を差し出した。
「こちらへ渡してください。私が着付けを行います」
そうして梓は、完璧な捌きで和泉を立派な“格好”へと変えてしまう。
「結構、イケてますね?」
和泉は決め顔で言う。
「準備ができたら、居間へ戻ってください。
もう少ししたら、お嬢様たちも準備が終わるでしょう」
梓は目も向けず、さっさと次の準備に移る。
「梓さん、ありがとう。――あれ、どうしたの?」
和泉の問いに、梓は冷たい視線を返した。
「終わったのなら、さっさと行ってください。
私も、着替えがありますので」
「梓さん、本当にありがとうね!
じゃ、また後で」
そう言って、和泉は慌ただしく出て行った。
「まったく、騒がしい方ですね」
そうは言いつつも、梓の表情はどこか柔らかかった。
* * *
居間で皆を待つ和泉は、ふと中庭へ目を移した。
離れとはいえ、立派な屋敷だ。池泉式の庭は優雅で、しかも奥ゆかしさが静かに息を潜めている。
ガラス障子に映る自分の姿に気づく。
和泉が纏っていたのは、黒に近い濃灰の浴衣だった。煤けた炭のように深い黒灰の生地が、彼の輪郭をきりりと立たせる。手足の長い和泉には、よく似合っていた。
葡萄酒色の帯が、静かに――だが確かに、若さゆえの“生意気”を差し込んでいる。
(あまりこういう服は着たことがなかったが――悪くない)
ぼうっとしていると、廊下の方から黄色い声が響いてきた。
着付けを終えたらしい。理恵を先頭に、杏樹、亜子が続く。
「百希夜さん、遅くなり申し訳ございません」
理恵が背筋を伸ばして礼をする。
顔を上げた、その瞬間。和泉は、意識を吸い込まれそうな錯覚を憶えた。
「いや、そんなことはないさ。それより理恵ちゃん、いつもと雰囲気が違って驚いたよ」
理恵の浴衣は、これまでのテイストと随分違った。
白地に黒の縞がすっと走り、涼やかな骨格を作っている。そこへ鮮やかな青、やわらかな橙、珊瑚色の大ぶりな花が袖や胸元に咲き誇り――灯りを待たずとも、彼女だけがもう祭りの中心にいるようだった。
腰の橙の帯が、奔放な色を大胆にまとめ上げ、瑞々しさをさらに押し上げている。
髪も結い上げられていた。普段よりずっと年相応の“少女”が前に出る。
「いえ、そのようなことを言われますと、少し照れてしまいますわ」
理恵はほんのり頬を染め、視線を斜め下へ落とす。
その仕草まで絵になって、浮世絵師たちが女を描いたのも、妙に腑に落ちた。
「ふん、ふん!」
その後ろで、自分を見てと主張する子猫みたいに、杏樹が忙しなく動いている。
「当然、杏樹もな」
その一言で、杏樹の顔がぱっと晴れる。
「ふー♪ ふー♪」
軽やかに居間へ駆け、くるくる回った。
「杏樹のは、“杏樹”らしさがよく出てるよ」
「ええ、杏樹様はぜひこれを、とずっと考えておりました」
理恵も自信作らしい。
杏樹の浴衣は白を基調にした明るい一枚で、橙の大輪が咲き、ところどころで青い丸花が弾けている。花火が開く瞬間みたいに、丸い青がぱっと視線をさらう。
そして鮮やかなピンクの帯が、天真爛漫さと可愛らしさをこれでもかと押し出していた。
「ち、ち、ち、ち。こんな超っかわいい杏樹ちゃんにときめくのも致し方ないが……そればっかりじゃ、いけないぜ、少年?」
キザな口調のまま、杏樹は廊下の奥へ消える。
「いいから、だいじょうぶだって! とっても似合ってるじゃん!」
「いや、あたしは、いいから……」
奥で亜子と問答しているらしい。
「いいから、さ!」
背を押される形で、亜子が角から姿を現す。
「おお」
瞬間、和泉は賛嘆の声を漏らしていた。
亜子の浴衣は、ぱっと目を引く山吹色。夕暮れの光を先取りするような濃い黄の上に、白い大花がふわりと浮かぶ。桃や薄紫の花がところどころに重なって、明るいのにどこか柔らかい。
そこへ紫の帯が入ることで、細い縞が幾重にも走り、甘い色がきゅっと締まっていた。
さらに亜子は、いつも結っている髪をほどいている。柔らかな髪がゆるく波打ち、“少女”と“女性”の間にある繊細さを宿していた。
「何か、気の利いたこと言って!」
いつの間にか傍らに来ていた杏樹が、肘で小突いてくる。
「とっても似合ってるよ、亜子ちゃん」
和泉は、そんなことしか言えなかった。
いや、それ以外が見当たらない。美しい花に“美しい”と言うしかないように、目の前の亜子はそうとしか言い表せなかった。
「そう――」
亜子は平静を装ってはいたが、声が少しだけ上ずっている。
「亜子さんのは、かなり悩みまして……杏樹さんと一緒に、ああでもない、こうでもないと。気づけば、こんな時間になってしまいました」
理恵は得意気だった。
「お、みんな揃ったかな?」
四人が揃ったところで、花奈が声を掛けてきた。
その奥には、すでに着替え終えた梓も立っている。
花奈は、夜の藍をそのまま染めたような浴衣に、小さな花の影を散らしていた。白い帯が静かな涼を添え、さらに――白い和傘をふわりと傾ける。その影が頬に落ちた瞬間、夏の喧騒が一歩だけ遠のいた気がした。
一方の梓は、青緑の浴衣に白い花を凛と咲かせ、生成りの帯で余計な甘さを削ぎ落としている――涼しさが、そのまま人の形をしている。袖口を指先でそっと押さえ、帯の位置を一度だけ確かめる。その所作が静かすぎて、逆に目を奪った。
三人娘とは正反対の、落ち着いた色。
だが、その静けさこそが、彼女たちの内に秘めた“可愛らしさ”を引き立てているようでもあった。
「花奈さんも! 梓さんも! きれえ~。モデルさんみたい!!」
杏樹は再び大興奮だ。
「梓も、よく似合っていますね」
「いえ、お嬢様に比べれば」
「あこっちも、かわいいじゃん!」
「あ、あたしは、別に……」
会話に花が咲きかける。だが、もう祭りの時間は始まっている。
「では――行きますか」
和泉の声で、皆は会場へと向かう。
* * *
祭り会場は、すでに熱を帯びていた。
路肩には出店が連なり、鉄板の焦げる匂いと甘い蜜の香りが、夜気に混ざって流れていく。
人の波は厚く、笑い声と呼び込みが途切れない。
その中で、和泉たちの一団だけは――埋もれない。
浴衣の色が、灯りに浮く。
通りすがる視線が一瞬、釘付けになる。
当然、声を掛けようとする輩もいるだろうが…。
和泉がふと後方へ視線を送る。
そこに、《防人》たる、氷川 薫がいた。
余計な熱を、冷たい手つきで押し戻すように。声を上げるまでもなく、“近づくな”が成立していた。
「それにしても、氷川さん、いつも以上に張り切ってますね」
「まあ、氷川さんも思うところがあるんでしょ」
和泉の言葉に、花奈が口を開く。
先のシンボルタワーでの一件で思うことがあるようで、本来の護衛先である笠井を押して、和泉の護衛を菩提府へ打診していたようだった。
しかし、組織とは中々に一枚岩とは言えないようで、彼の護衛先の変更は一部の反対により却下された。
それが今回の一件で、さしもの反対していた連中も大きな声を出せなくなったようだ。
「どっちみち、もうあんな無茶はしちゃだめだよ」
「…分かってます」
ふと、和泉の顔に影が差す。
「ま、でも――今日ばかりは、しっかり楽しみましょう? みんなも待っているんだから」
「ええ」
二人は、理恵たちの方へ視線を移す。
和泉たちの視線に気付いた杏樹が手を振っている。
「おーい、ふたりとも何してんの~? おいてくよ」
理恵は、リンゴ飴をきらきらした目でこちらへ向けていた。
「百希夜さん! すごいですよ、このリンゴ飴って!! きれいで、甘くて――」
それを一眼レフで、一挙手一投足取りこぼさんと、梓は忙しなくシャッターを押していた。
その横で、亜子がたこ焼きを頬張っていた。
すると、亜子と和泉の視線が合う。
「何? あげないよ」
亜子はそう言って、たこ焼きを大事そうに抱えている。
「ちょっと、みんな待ってよ! 行くよ、和泉くん」
花奈が和泉の手を取って走り出した時――
ヒュルルル……。
空が、息を吸い込む。
次の瞬間。
ドンッ。
腹の奥まで震える爆発音が、会場を一枚、ひっくり返した。
見上げれば、黄金の大輪。
夜空に咲いた花が、遅れて光を広げる。
ヒュルルル…――
ドォン!
今度は大輪と共に、歓声も上がる。
人々は、その瞬間、夜空に咲いた黄金の大輪たちに釘付けであった。
そして、その花々は咲いては散って、散っては咲いてを繰り返す。
その定期的なリズムは、まるで踏切音のようであった。
「とっきー、きれいだね――」
杏樹が和泉に声を掛けようとした時、彼女は次の言葉を飲み込んだ。
それは、理恵や亜子たちにも同じ感情を抱かせたようだった。
和泉は――泣いていた。
雫の軌跡が、黄金色に照らされて、まるで透明な水晶のように光っているようであった。
誰も、彼に声を掛けられないでいた。
果たして、目の前の少年は何を思い、涙を流しているのか?
その真意は、彼女たちも
そして――彼自身も、分からない。
ただ、一人の少年が流す涙は、とても“絵”になった。
やがて過ぎ行く夏の空に、儚く咲いた大輪の花。
それは同じ星の元で、ひっそり添えられたマリーゴールドのようであった…。
夢幻開現師、第七章完。
あとがき
今回は、夢幻開現師:第七章「死灰の残響」を読んでいただき、ありがとうございました。
いやあ……今回はかなり苦戦しました。なんなら、この63話が完成したのも投稿2時間前。ずいぶん追い詰められていました。
原因は、12月から始まったスランプです。
この章を書き始めた段階で、結末までのラインは見えていました。けれど、いざ走り出すと進まない。書いては休み、休んでは書き……そんなぐだぐだを続けているうちに、しまいには「書けない」になってしまいました。
まったく不甲斐ないことに、8月からのストックもすべて切れ、それでも復活せず。
こりゃあだめだ、といっそのこと「書かない」と決めたら、気持ちが一気に楽になって――気づけば新年が明けていた、という具合です。
しかし、1月の終わりが近づくにつれて、少しずつ気力が戻ってきました。
そこからは、あれよあれよと書き進め……結局、毎回投稿がギリギリのギリ。
しかも、あれだけ書けなかったくせに、設定だけは増える増える。書いているうちに生まれたものを、そのまま拾っていった結果、想定以上に膨らんでしまった。――これが第七章の総括です。
読んでくださった方には、読みづらいところも多かったと思います。それでも、書き手としての自分の心境を問い、そこに答えられたという点では、私にとって大きな転換点になりました。
さて、この第七章を機に、「夢幻開現師」はあと2章ほどで完結させる所存です。
もともとはもっと長期で挑む気概でしたが、原稿を仕上げ、投稿し続けることの難しさと厳しさを、素人なりに痛感しました。
とはいえ、現在もプライベートに追われ、なかなか時間が取れない状況です。
しばらく休んでから、最終章まで一気に完走できたらと思います。次回の再会は、3月中旬を目途に。近くなりましたら、改めてお知らせします。
では、次回――第八章にてお会いしましょう。




