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夢幻開現師 ―夢の守り人―  作者: ks21
第七章:死灰の残響編
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第63話「大輪と散る」

 雨は、しとどに降る。


 雨に閉ざされた少年と、

 雨に打たれた女の決闘は、終わりを告げる。


 ああ、なぜ――こうなってしまったのか。

 罪とは、何だ。罰とは、何だ。

 しかして時は過ぎる。残酷なほどに。


 そして、そんな悲劇もひっそりと幕を閉じ、

 ただ、空には大輪が咲いては散るのみ……。

 雨と踏切の音だけが、鳴り続けていた。


 目の前に、一人の女性がいる。

 彼女は濡れていた。

 それも、たっぷりと――ずぶ濡れに。


 口元から血を滴らせながら、彼女は何事かを呟いている。

 ぼくも、それに何か返したらしい。

 けれど、何を言ったかはもう覚えていない。


 彼女の目から、光が少しずつ消えていく。

 柔らかな漆黒が、その瞳を覆っていった。


 ふと、ぼくの手に温いものが流れていることに気づき、視線を落とす。

 彼女の左脇腹に、赤い刀身が深々と刺さっていた。


 彼女が着ていた黒いチャイナドレスのせいで、すぐには分からなかった。

 だが、刀身から零れ落ちる血の量が――彼女の死を、ありありと告げていた。


 雨が降っていた。

 それでも、この手に流れ落ちてくる血は、雨でさえ洗い落とせそうにない。


 ふと、彼女の瞳を見る。

 漆黒の奥に、わずかな光が見えた。


 確か、パンドラの箱だったか。

 少女パンドラがこの世の絶望を閉じ込めたとされる箱を、開けてしまった話。

 箱を開けたせいで世界は絶望に包まれた――とされるが、あの話には続きがある。


 絶望が抜け落ちた箱の底に、ひとつだけ光るものが残っていた。

 それが、絶望の中に取り残された“希望”だったのだと。


 どうでもいいはずの逸話が、ふと頭をよぎる。

 だがその瞬間、彼女の瞳には確かに“希望”があった。


 ――後になって気づいた。

 あれは、彼女の瞳に映った“ぼく”だったのだ。


 そんな中、真っ赤に染まった彼女の口が、にっと笑う。


 瞬間。

 彼女の背後に、灰色の影が迫っていた。


 どうやら、彼女はこの瞬間を待っていたらしい。

 点火針を引き抜こうにも、深々と刺さったそれは――彼女の手が、柄元を押さえつけている。抜けない。


 死灰が、最後の雄叫びを上げる。

 それは主人の死を悲しんでいるのか。

 それとも、己が命を賭して放つ一撃への執念なのか。


 ぼくには判然としない。

 だが、はっきりしていることがある。


 ここで自分が死ねば、何もかもが水泡に帰す。

 囚われた人々も――おそらく助からない。


 それだけは、何としてでも避けなければならなかった。

 でなければ、なぜ“罪”を冒してまで勝ったのか。

 その意味すら、消えてしまう。


 そんな思いが刹那をよぎる中――ぼくは、驚くほど冷静だった。


 彼女との戦いの中で、ぼく自身の“深化”が、さらに“進化”を見せようとしていることに、歓喜していた。

 そして、それを実行するだけの覚悟と決意が、ぼくにはあった。


 死灰の鋭い一閃が、振り下ろされようとしている。

 もはや一刻の猶予もない。

 ――通常なら、今際の句を詠んでもおかしくない。


 だが、この身に流れる紅蓮の炎が、それを許さない。


 荒れ狂う炎をさらに研ぎ澄ませ、点火針の刀身へと流し込む。

 この戦いの中で、業火を一定の制御下へ置くことはできるようになった。

 それでも、完全とは言いがたい。指向性は与えられるが、放ったものを最後まで握り続けることはできない。


 ――だが、これはどうだ。


 点火針へ炎を流し込んだ瞬間、あれほど強烈だった奔流が、一気にこちらの意志へ従い始めたではないか。


 想像した通り。

 点火針――いや、“ヴァジュラ”とは己の心を表したものならば、

 “深化”で生じたこの業火もまた、根源は同じ場所にあるらしい。


「一緒に、死んでちょうだい?」


 澪音は、朽ちゆく意志へ最後の指令を走らせる。

 それは愛するカロンへ届き、最後のあがきを放たせようとしていた。


「ならばッ!!」


 だが、戦いは無常だ。

 彼女の最後の抱擁でさえ、目の前の少年を止めることは叶わない。


 和泉の腕に纏われていた紅蓮の業火が、瞬く間に――澪音へ突き立てられた点火針へ流れ込む。

 刀身は赤から、燦然と輝くオレンジへ変わった。


 一瞬、澪音の視界が光に満ちる。


――ああ、なんて眩しいのかしら……。


 眩しさの中で、なおそこに自己を在らせる少年から、目が離せない。


――ああ、そうだったの……。

――これが……これこそが……。


 そして彼女は、遠い空を見上げた。


――初恋って、やつなのね。


 激しく燃え上がる刀身は、澪音の身体さえ白く灼いていく。


「伸びろ!! 赤い一線――」


 そのスパークは、飛び掛かる死灰へ、強烈な終わりを予感させる。

 だが、もう誰も止められない。

 たとえ、死灰であっても。


 死灰が、最後にもう一度、雄たけびを上げた。

 この虚しい戦いの終わりを告げるがごとく。


 それに呼応するかのように、和泉も叫ぶ。


「――炎上!!」


 轟ッ!!!


 強烈な火柱が、点火針の切っ先から放たれた。

 とてつもない速度で死灰へ刺さり、胴体を容易く貫く。


 一瞬、虚無が広がる世界に、オレンジの軌跡が迸った。

 だがそれも、静かに、細々と消えていく。


 やがて高く伸びた火柱は点火針へ還り、刀身は銀へ戻る。


 和泉は、すっとその刃を澪音の身体から引き抜いた。

 主人が崩れ落ちるのに合わせ、死灰の身体も静かに霧散していく。


 ザッ――。


 倒れかけた澪音の身体を、和泉は抱きかかえていた。


 和泉が抱えたその腕から、黒々とした血が流れ落ちていく。

 地面のバラストは、血と雨で瞬く間に茶色から黒へと染まっていた。


「ま、さか……あんな、おくの……手が……あった、なんて……ね」


 絶え絶えに、澪音は言葉を紡ぐ。


「俺も、今の今まで、あんなことができるなんて知らなかったよ」


 和泉は、優しく返す。

 澪音はそれを見つめ、ふっと笑った。


 雨は降り続け、踏切の音は鳴りやまない。


 澪音は、血に濡れた手をなんとか持ち上げる。

 もう力を入れることすら困難だろうに、それでも震える指が和泉の頬を這う。


「……悲しい、ね」


 すっと、その手が落ちた。


 和泉の頬に血の軌跡が残る。

 だが彼は意に介さず、ただ腕の中で冷たくなっていく彼女を見つめていた。


「爸爸……妈妈……卡隆……」


 やがて、彼女の目から光が完全に消え去る。


 和泉はポケットから、オレンジの花が刺繍されたハンカチを取り出し、血に汚れた彼女の顔を拭った。


「これ、汚れたから……また洗ってから返すな」


 その言葉は、もう誰にも届かない。


 カン……カン……カン……。


 雨音の中、踏切だけが規則的に時を刻む。


 そして、かろうじて残された踏切の片隅に――

 一輪のオレンジのマリーゴールドが、優しく咲いていた。



* *  *


――雨と踏切の残響の中、世界は静かに“外側”へ引いていった。


 和泉は、血に濡れたシルクのハンカチを再びポケットへしまい、歩き出す。


 ザーザーと降り続く雨が、彼女の血だけでなく、和泉の血さえ洗い流していく。


 ふと、身体へ意識を向けた。

 全身が、ボロボロだった。


 さきほど喰らった脇腹の傷も再び“開き”、赤黒い血をだらだらと滴らせている。

 背や頬――身体のあちこちからも、おびただしい血が流れていた。


 精神も、もはや限界だ。


「こんな……無茶をして……。

 へッ、やっぱり俺も師匠とよく似てりゃあ……」


 瞬間、全身の力が抜け落ちる。

 視界がぐるぐると回り、糸の切れた操り人形みたいに、地面へ倒れ伏した。


 もう、痛みすら鈍って感じない。

 思考も追いつかず、ただ――血の温かさに包まれていた。


 視線の先。

 同じく倒れた澪音の姿が見える。


 ――と。


 先ほどまで倒れていた澪音が、何事もなかったように、すっと起き上がったではないか。


 和泉は、それを漠然と見ているしかなかった。


 括られていた髪がほどけ、黒髪が雨の中で静かに広がる。

 そして彼女は、“真っ赤な傘”を差していた。


「あ~あ、期待外れだったよ。

 あの子には、さ」


 姿形は、たしかに澪音そのものだ。

 だが声色も、雰囲気も――何より、赤い瞳が“彼女ではない”ことをありありと証明していた。


 “真っ赤な傘の女”が、ゆっくりと近づく。


「ま、でも。これで君を“彼”の元へ連れて行ける。

 御の字ってところかな?」


 女は跪き、和泉へ傘を差し伸べる。

 女――“アカネ”は、澪音の瞳でにっと笑った。


 だが、それは彼女の笑みとは比べるまでもない。

 人を馬鹿にした、嫌な眼だ。

 ――かつて出会った“朱天”のように。


「驚いたかい? ふふ、これもサプライズってやつさ」


 あどけない声。

 けれど、その奥の無機質な冷たさは隠しきれていない。


「この子に何っの才能もなかったから、すごく馴染みやすかったよ。

 それを、この子ったら――自分の力だって勘違いしちゃってさ」


 アカネが、にっと笑う。

 いや――嗤った。


「痛い、だろ?」


 和泉には、目の前の女が何を言っているのか分からない。

 だが少なくとも、“彼女”ではない。

 彼女の身体を勝手に使い、あろうことか彼女を愚弄している。


 和泉の内に、憎悪の火が灯る。


「おやおや? あの子に同情でもしちゃった?

 そう、かっかしちゃだめさ」


 アカネがすっと、和泉の首筋へ手をかざす。

 すると燃え上がりかけた火が、すっと消えた。


「さてと――」


 おもむろに襟を掴み、乱暴に引きずっていく。


「す~きです、す~きです、すきだから~」


 上機嫌に鼻歌を口ずさみながら、消えゆく線路の上を歩く。

 和泉を引きずったまま。


 ――が、ふと。女が空を見上げた。


「あらら。少しお遊びが過ぎたか――」


 スン……。


 次の瞬間、雨の中から光の筋が舞い降りる。

 和泉を持ち上げていた腕が、その一閃で――音もなく斬り落とされた。


「随分と速かったじゃないか?

 え、聖斂隊(せいれんたい)さん」


 いつの間にか、和泉の身体は一人の男に奪い返されていた。

 男は間合いを取ったことを確認するや否や、無造作に和泉を後方へ放り投げる。


 ずれた眼鏡をくいっと押し上げ、手にしたレイピアの鋭い先端を女へ向けた。


「あまり無駄口を叩くな。

 こちらは、お前とおしゃべりをしに来たわけじゃない」


 男――聖斂隊副隊長、小水内 悠(おみない はるか)が毅然と告げる。


 その横で、肩まで切り揃えた髪の女性が一歩、構える。

 雨に濡れた髪が、わずかに紫を揺らしていた。


「おやおや、釣れないね~」


 手首を斬られたとは思えないほど、アカネは涼しい顔で笑う。

 斬られた根元から肉が盛り上がり、骨が生え、見る見るうちに再生していく。


 ――人間、ではない。


 再生した指を、真っ赤な唇へそっと当てる。


「ふううぅぅ……」


 煙草の煙を吹かすみたいに、指の隙間から息を吐いた。

 吐息に混じり、灰色の粒子が舞う。


 灰。

 それが蛇のように宙をうねり、身を起こす。


「では、せっかくのご挨拶に」


 アカネが視線を向けると、灰の蛇は凄まじい速度で飛んだ。


 だが小水内は動じない。

 代わりに、もう一人の女性――真理が半歩前へ出る。


「我が敵を討て――」


 腕に光が灯る。


「顕現――立華鉢頭摩鋏(りっかはずまぎょう)!!」


 叫びとともに、銀色の巨大な鋏が現れた。


 ザンッ!!


 振るう。

 灰の蛇は、中空へ霧散していった。


「穏やかじゃないね」


 アカネは笑いながら言った。

 しかして、その瞳は笑っていない。

 緋色の瞳ではあるが、“死者の眼”であった。

 色はある。だが本質は暗く、光がない。


「こちらも、相応の準備はしているということだ」


 すると周囲を取り囲むように、他の隊員たちが構えを固めた。


 この場にいる皆に、雨が降り注いでいた。

 誰も何も言わない。だが、目に見えるほどの緊張がそこにあった。

 呼吸することすら、はばかれる。


 しかし――


「……ふう」


 先に動いたのは、アカネだった。

 くいっと両手を上げる。


 それに反応して、周囲の隊員が一斉に臨戦態勢へ移る。

 唯一、動かないのは――正面で相対する小水内と真理の二人だけだ。


「今日は、分が悪そうだ」


 アカネはくるくると、手にした赤い傘を回す。


「逃げられるとでも?」


 小水内の問いにも、アカネは笑っていた。


「ま、いずれまた会えるだろうしね」


 視線が、小水内たちへ。そして、奥の和泉へ向く。


「運命の火は、灯ったのだから」


 そう言うと、傘をひらりと前面へ振り回した。

 一瞬、赤い傘がアカネの身体を覆い、姿が消える。


 瞬間、構えていた隊員たちが飛び掛かった。


 だが――。


 傘がふわりと舞ったかと思うと、そこに彼女の姿はない。

 ただ、隊員たちの刃がバラストを削っているだけだった。


「副隊長!?」


 隊員の声。


「逃げられたか……」


 小水内はそう呟き、手にしていたレイピアを消す。


「追いますか?」


 真理が鋭い目で問う。


「いや。この状況で奴を追うのは危険すぎる。

 それに、囚われた人々を救い出すのが優先だ――」


 眼鏡の奥の鋭い眼光が、倒れ伏した和泉へ向く。


「兎にも角にも、今は彼の身柄の保護を優先としよう」


 真理は同意し、他の隊員へ救助の指示を飛ばした。


「まったく、勝手な奴だ。

 どこかの阿呆と、よく似ている」


 小水内は少年の背に、かつての“男”の影を重ねていた。



* *  *



 シンボルタワーでの決戦も終わり、和泉のもとへ――また退屈な日々が戻ってきた。


 事件の直後、和泉は聖斂隊の指示で、菩提府が抱える病院へ緊急搬送された。だが主治医も驚くほどの回復速度で、予定より早く退院してしまった。

 当然、大塚からしこたま怒られたのは言うまでもない。


 大塚の話では、シンボルタワーに囚われた人々も、さらに和泉へ「シンボルタワーへ来い」と伝えた開現師も、なんとか一命を取り留めたらしい。


 ――しかし、問題はそこではなかった。


 正直、和泉は覚悟していた。

 自分はもう、開現師として続けられなくなるかもしれない、と。


 結果的に被害が最小限で済んだとはいえ、それは“結果”に過ぎない。

 自分の行動が褒められたものではないことなど、痛いほど分かっている。


 もし、仮に澪音がその気になっていれば、被害者たちは助からなかっただろう。

 どうして彼女が彼らを盾にしなかったのか――今となっては、その真意は分からない。

 だが、救えたからといって、上層部が今回の件を見逃すはずがない。


 実際、上層部は和泉への厳罰に加え、大塚にも監督責任を問う構えだったらしい。

 ところが、それは結局うやむやになった。


 大塚が言うには、あの“小水内”がこう証言したのだという。


「今回、偶然にも和泉百希夜が現場に居合わせ、敵と遭遇してしまったこと。

 さらに、敵の策略により外部との連絡が遮断されかける中で、ぎりぎりのところで上司――大塚玲之へ現在地を送信できたこと。

 それにより、我々は速やかに現場へ到着できた」


 上層部の一部は小水内へ証言の追及を試みた。

 だが逆に「菩提府内部の情報伝達に明らかな不備があったのではないか」と切り返され、それ以上踏み込めなかったらしい。


 大塚は言った。


「お前も今度、奴に会った時は礼を言うことだな」


 意外だった。

 小水内悠――彼は師である笠井とともに、南に師事し、共に修行した仲らしい。


 だが、初めて会った時から小水内の笠井への反応はあからさまだった。

 冷たいレンズの奥に、明らかな敵意があった。

 その弟子である和泉に対しても、彼の態度は冷たいままだった。


 それが、まさか彼がそんなことを言うとは――。

 和泉は今でも信じられない。


 しかし、ともかくだ。


 結果として、和泉は仲間との“約束の日”を、こうして無事に迎えることができたのだ。



* * *



「よしっと」


 和泉は姿見の前で、出で立ちの最終チェックをする。

 今日は、皆で行く花火大会の当日だった。


 集合時間には少し早い。だが理恵や杏樹、亜子、花奈たちは、理恵の浴衣を借りるため、少し早めに來瀬川家の離れを訪れている。


 しばらく暇ができた――そう思った矢先。


「和泉様」


「おお!? 梓さん、いたんですか」


 気づけば、理恵のメイドである藤本 梓(ふじもと あずさ)が背後に立っていた。

 梓は驚く彼を無視して、着物のようなものを差し出してくる。


「これは?」


 どうやら、男物の浴衣らしい。


「お嬢様は、他の方々の着付けに付き合われていて手が離せません。

 あなたがどのような格好で赴こうとしていたかは知りませんが……」


 梓は、じとっとした視線で和泉を見やる。

 白のTシャツにジーンズ――和泉はそんな格好だった。


 手足の長い和泉なら、ラフでもそれなりに様になる。だが――。


「はあ……」


 梓は小さく溜め息をつき、


「せっかく、お嬢様たちを誘ったのでしょう?

 そんな格好では、格好がつかないというものです」


「ああ、ありがとうございます」


 和泉は受け取り、広げる。

 そして、しばし固まり、梓を見やった。


「あの~……これって、どう着るんですかね?」


 ぎこちない笑み。


「はあ~……」


 梓は大きく溜め息をつくと、さっと手を差し出した。


「こちらへ渡してください。私が着付けを行います」


 そうして梓は、完璧な捌きで和泉を立派な“格好”へと変えてしまう。


「結構、イケてますね?」


 和泉は決め顔で言う。


「準備ができたら、居間へ戻ってください。

 もう少ししたら、お嬢様たちも準備が終わるでしょう」


 梓は目も向けず、さっさと次の準備に移る。


「梓さん、ありがとう。――あれ、どうしたの?」


 和泉の問いに、梓は冷たい視線を返した。


「終わったのなら、さっさと行ってください。

 私も、着替えがありますので」


「梓さん、本当にありがとうね!

 じゃ、また後で」


 そう言って、和泉は慌ただしく出て行った。


「まったく、騒がしい方ですね」


 そうは言いつつも、梓の表情はどこか柔らかかった。



* *  *



 居間で皆を待つ和泉は、ふと中庭へ目を移した。

 離れとはいえ、立派な屋敷だ。池泉式の庭は優雅で、しかも奥ゆかしさが静かに息を潜めている。


 ガラス障子に映る自分の姿に気づく。

 和泉が纏っていたのは、黒に近い濃灰の浴衣だった。煤けた炭のように深い黒灰の生地が、彼の輪郭をきりりと立たせる。手足の長い和泉には、よく似合っていた。

 葡萄酒色の帯が、静かに――だが確かに、若さゆえの“生意気”を差し込んでいる。


(あまりこういう服は着たことがなかったが――悪くない)


 ぼうっとしていると、廊下の方から黄色い声が響いてきた。

 着付けを終えたらしい。理恵を先頭に、杏樹、亜子が続く。


「百希夜さん、遅くなり申し訳ございません」


 理恵が背筋を伸ばして礼をする。

 顔を上げた、その瞬間。和泉は、意識を吸い込まれそうな錯覚を憶えた。


「いや、そんなことはないさ。それより理恵ちゃん、いつもと雰囲気が違って驚いたよ」


 理恵の浴衣は、これまでのテイストと随分違った。

 白地に黒の縞がすっと走り、涼やかな骨格を作っている。そこへ鮮やかな青、やわらかな橙、珊瑚色の大ぶりな花が袖や胸元に咲き誇り――灯りを待たずとも、彼女だけがもう祭りの中心にいるようだった。

 腰の橙の帯が、奔放な色を大胆にまとめ上げ、瑞々しさをさらに押し上げている。


 髪も結い上げられていた。普段よりずっと年相応の“少女”が前に出る。


「いえ、そのようなことを言われますと、少し照れてしまいますわ」


 理恵はほんのり頬を染め、視線を斜め下へ落とす。

 その仕草まで絵になって、浮世絵師たちが女を描いたのも、妙に腑に落ちた。


「ふん、ふん!」


 その後ろで、自分を見てと主張する子猫みたいに、杏樹が忙しなく動いている。


「当然、杏樹もな」


 その一言で、杏樹の顔がぱっと晴れる。


「ふー♪ ふー♪」


 軽やかに居間へ駆け、くるくる回った。


「杏樹のは、“杏樹”らしさがよく出てるよ」


「ええ、杏樹様はぜひこれを、とずっと考えておりました」


 理恵も自信作らしい。

 杏樹の浴衣は白を基調にした明るい一枚で、橙の大輪が咲き、ところどころで青い丸花が弾けている。花火が開く瞬間みたいに、丸い青がぱっと視線をさらう。

 そして鮮やかなピンクの帯が、天真爛漫さと可愛らしさをこれでもかと押し出していた。


「ち、ち、ち、ち。こんな超っかわいい杏樹ちゃんにときめくのも致し方ないが……そればっかりじゃ、いけないぜ、少年?」


 キザな口調のまま、杏樹は廊下の奥へ消える。


「いいから、だいじょうぶだって! とっても似合ってるじゃん!」


「いや、あたしは、いいから……」


 奥で亜子と問答しているらしい。


「いいから、さ!」


 背を押される形で、亜子が角から姿を現す。


「おお」


 瞬間、和泉は賛嘆の声を漏らしていた。

 亜子の浴衣は、ぱっと目を引く山吹色。夕暮れの光を先取りするような濃い黄の上に、白い大花がふわりと浮かぶ。桃や薄紫の花がところどころに重なって、明るいのにどこか柔らかい。

 そこへ紫の帯が入ることで、細い縞が幾重にも走り、甘い色がきゅっと締まっていた。


 さらに亜子は、いつも結っている髪をほどいている。柔らかな髪がゆるく波打ち、“少女”と“女性”の間にある繊細さを宿していた。


「何か、気の利いたこと言って!」


 いつの間にか傍らに来ていた杏樹が、肘で小突いてくる。


「とっても似合ってるよ、亜子ちゃん」


 和泉は、そんなことしか言えなかった。

 いや、それ以外が見当たらない。美しい花に“美しい”と言うしかないように、目の前の亜子はそうとしか言い表せなかった。


「そう――」


 亜子は平静を装ってはいたが、声が少しだけ上ずっている。


「亜子さんのは、かなり悩みまして……杏樹さんと一緒に、ああでもない、こうでもないと。気づけば、こんな時間になってしまいました」


 理恵は得意気だった。


「お、みんな揃ったかな?」


 四人が揃ったところで、花奈が声を掛けてきた。

 その奥には、すでに着替え終えた梓も立っている。


 花奈は、夜の藍をそのまま染めたような浴衣に、小さな花の影を散らしていた。白い帯が静かな涼を添え、さらに――白い和傘をふわりと傾ける。その影が頬に落ちた瞬間、夏の喧騒が一歩だけ遠のいた気がした。

 一方の梓は、青緑の浴衣に白い花を凛と咲かせ、生成りの帯で余計な甘さを削ぎ落としている――涼しさが、そのまま人の形をしている。袖口を指先でそっと押さえ、帯の位置を一度だけ確かめる。その所作が静かすぎて、逆に目を奪った。


 三人娘とは正反対の、落ち着いた色。

 だが、その静けさこそが、彼女たちの内に秘めた“可愛らしさ”を引き立てているようでもあった。


「花奈さんも! 梓さんも! きれえ~。モデルさんみたい!!」


 杏樹は再び大興奮だ。


「梓も、よく似合っていますね」


「いえ、お嬢様に比べれば」


「あこっちも、かわいいじゃん!」


「あ、あたしは、別に……」


 会話に花が咲きかける。だが、もう祭りの時間は始まっている。


「では――行きますか」


 和泉の声で、皆は会場へと向かう。



* *  *



 祭り会場は、すでに熱を帯びていた。

 路肩には出店が連なり、鉄板の焦げる匂いと甘い蜜の香りが、夜気に混ざって流れていく。

 人の波は厚く、笑い声と呼び込みが途切れない。


 その中で、和泉たちの一団だけは――埋もれない。

 浴衣の色が、灯りに浮く。

 通りすがる視線が一瞬、釘付けになる。

 当然、声を掛けようとする輩もいるだろうが…。


 和泉がふと後方へ視線を送る。

 そこに、《防人》たる、氷川 薫(ひかわ かおる)がいた。

 余計な熱を、冷たい手つきで押し戻すように。声を上げるまでもなく、“近づくな”が成立していた。


「それにしても、氷川さん、いつも以上に張り切ってますね」


「まあ、氷川さんも思うところがあるんでしょ」


 和泉の言葉に、花奈が口を開く。

 先のシンボルタワーでの一件で思うことがあるようで、本来の護衛先である笠井を押して、和泉の護衛を菩提府へ打診していたようだった。

 しかし、組織とは中々に一枚岩とは言えないようで、彼の護衛先の変更は一部の反対により却下された。

 それが今回の一件で、さしもの反対していた連中も大きな声を出せなくなったようだ。


「どっちみち、もうあんな無茶はしちゃだめだよ」


「…分かってます」


 ふと、和泉の顔に影が差す。


「ま、でも――今日ばかりは、しっかり楽しみましょう? みんなも待っているんだから」


「ええ」


 二人は、理恵たちの方へ視線を移す。

 和泉たちの視線に気付いた杏樹が手を振っている。


「おーい、ふたりとも何してんの~? おいてくよ」


 理恵は、リンゴ飴をきらきらした目でこちらへ向けていた。


「百希夜さん! すごいですよ、このリンゴ飴って!! きれいで、甘くて――」


 それを一眼レフで、一挙手一投足取りこぼさんと、梓は忙しなくシャッターを押していた。

 その横で、亜子がたこ焼きを頬張っていた。

 すると、亜子と和泉の視線が合う。


「何? あげないよ」


 亜子はそう言って、たこ焼きを大事そうに抱えている。


「ちょっと、みんな待ってよ! 行くよ、和泉くん」


 花奈が和泉の手を取って走り出した時――


 ヒュルルル……。


 空が、息を吸い込む。


 次の瞬間。


 ドンッ。


 腹の奥まで震える爆発音が、会場を一枚、ひっくり返した。


 見上げれば、黄金の大輪。

 夜空に咲いた花が、遅れて光を広げる。


 ヒュルルル…――

 ドォン!


 今度は大輪と共に、歓声も上がる。

 人々は、その瞬間、夜空に咲いた黄金の大輪たちに釘付けであった。


 そして、その花々は咲いては散って、散っては咲いてを繰り返す。

 その定期的なリズムは、まるで踏切音のようであった。


「とっきー、きれいだね――」


 杏樹が和泉に声を掛けようとした時、彼女は次の言葉を飲み込んだ。

 それは、理恵や亜子たちにも同じ感情を抱かせたようだった。


 和泉は――泣いていた。


 雫の軌跡が、黄金色に照らされて、まるで透明な水晶のように光っているようであった。


 誰も、彼に声を掛けられないでいた。


 果たして、目の前の少年は何を思い、涙を流しているのか?

 その真意は、彼女たちも


 そして――彼自身も、分からない。


 ただ、一人の少年が流す涙は、とても“絵”になった。


 やがて過ぎ行く夏の空に、儚く咲いた大輪の花。

 それは同じ星の元で、ひっそり添えられたマリーゴールドのようであった…。



 夢幻開現師、第七章完。

あとがき


 今回は、夢幻開現師:第七章「死灰の残響」を読んでいただき、ありがとうございました。


 いやあ……今回はかなり苦戦しました。なんなら、この63話が完成したのも投稿2時間前。ずいぶん追い詰められていました。


 原因は、12月から始まったスランプです。

 この章を書き始めた段階で、結末までのラインは見えていました。けれど、いざ走り出すと進まない。書いては休み、休んでは書き……そんなぐだぐだを続けているうちに、しまいには「書けない」になってしまいました。


 まったく不甲斐ないことに、8月からのストックもすべて切れ、それでも復活せず。

 こりゃあだめだ、といっそのこと「書かない」と決めたら、気持ちが一気に楽になって――気づけば新年が明けていた、という具合です。


 しかし、1月の終わりが近づくにつれて、少しずつ気力が戻ってきました。

 そこからは、あれよあれよと書き進め……結局、毎回投稿がギリギリのギリ。

 しかも、あれだけ書けなかったくせに、設定だけは増える増える。書いているうちに生まれたものを、そのまま拾っていった結果、想定以上に膨らんでしまった。――これが第七章の総括です。


 読んでくださった方には、読みづらいところも多かったと思います。それでも、書き手としての自分の心境を問い、そこに答えられたという点では、私にとって大きな転換点になりました。


 さて、この第七章を機に、「夢幻開現師」はあと2章ほどで完結させる所存です。

 もともとはもっと長期で挑む気概でしたが、原稿を仕上げ、投稿し続けることの難しさと厳しさを、素人なりに痛感しました。


 とはいえ、現在もプライベートに追われ、なかなか時間が取れない状況です。

 しばらく休んでから、最終章まで一気に完走できたらと思います。次回の再会は、3月中旬を目途に。近くなりましたら、改めてお知らせします。


 では、次回――第八章にてお会いしましょう。

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