第62話「あなたに“罪”を、わたしに“罰”を」
暮れゆく世界は、蜜月の秒針を刻みながら、
穏やかに崩壊へ向かう。
線路脇に手向けられた花々は逝き果て、
花弁は白黒の幻影へと褪せていく。
そして、“罪”と“罰”のスパイスを乗せて、
いき場を失った虚しい残響だけが残る――。
世界は、緩やかに崩壊へと向かっていた。
対峙する和泉と澪音の瞳に、狂喜と懺悔の色が浮かぶ。
互いに声にせずとも、分かっていた。
次、その刃を交えた時――この蜜月の刻も、終わりを迎えることを。
鬼焔操流を発動させた和泉ではあるが、ことは単純には終わらない。
この技は面制圧において圧倒的な性能を誇り、白影が“直に吐く火”と違って、ある程度の融通も利く。
――だが、対人戦となると話は別だ。
先ほどの攻防で分かった通り、灰の身体となった死灰には、ダメージが通らない。
しかし、それでは“無敵”が過ぎる。
和泉の思考は、死灰の“強さ”そのものよりも、
その強さを成立させるはずの“弱さ”が――まるで最初から存在しないことへ向いていた。
確かに悪鬼の力は、時として尋常をはるかに超える。
自身の白影を筆頭に、多くの開現師たち、あるいは敵の悪鬼たち――どれも個性的で、厄介な存在ばかりだ。
だが、だからこそ。
悪鬼にも悪鬼なりの“理”がある。
そして、それこそが最も重要だ。
――完璧なものなど、存在しえない。
ごく当たり前のこの事実が、しかし悪鬼を語る上では決定的になる。
悪鬼との戦闘――つまり鬼夢内での戦いとは、言ってしまえば“我慢比べ”だ。
どれほど強大な悪鬼でも、それを生み出したのは人間そのもの。
ならば、どんなに完璧に見える意志の奥にも、必ず綻びはある。
ないとすれば、それはもはや生物ですらないだろう。
鬼夢内での戦いとは、相手の意志を砕けるか。
逆に言えば、自分の意志が砕けぬことを、どこまで誇示できるか――その一点に尽きる。
実際、誰もが攻撃を受ければ“痛い”。
もちろん、その痛みは現実のものではない。
だが、心に受けた傷は、ともすれば肉体の傷よりも深く残る。
悪鬼とは、宿主の精神状態に力を左右される存在だ。
感情が揺らげば弱くなる。
感情が強まれば強まるほど、悪鬼の力は驚異的に増す。
目の前の澪音は、先ほどから飄々としている。
――だが、それは“そう見せている”だけのはずだ。
なぜなら。
先ほどの攻防で、鬼焔操流の業火がほんの僅かとはいえ、死灰へ触れた瞬間を、和泉は確かに感じ取っていた。
悪鬼のダメージは、宿主へフィードバックされる。
繋がりが強ければ強いほど、その反動も大きい。
つまり、澪音の損耗も相応のはずだ。
和泉の予想は、当たっていた。
(――さっきの炎。あれをまともに受けるのは、もう無理ね……)
澪音は、自身の半身である死灰が和泉の纏う業火に怯えていることを、痛いほど感じていた。
それは、彼女自身が目の前の少年を恐れている証明でもある。
(――でも)
暗器を握る手に、力が入る。
(この先に、わたしの“夢”が叶う!!)
彼女は両手に組紐を握りしめ、八の字で回転させていく。
それは、これまでのものとは比べ物にならない速さだった。
紐の先端に結ばれた小刀が規則的な軌道を描き、地面のバラストをやすやすと切り裂く。
砕けた粉が舞い上がり、闇とオレンジに包まれた世界で、きらきらと光った。
一方の和泉もまた、更なる火力を求め、芯の奥から力を解放していく。
だが、これまでとは違い、炎は和泉の周囲だけで燃え盛っていた。
(面でなく、点で捕らえるなら……これまでの火力じゃ足りない)
燃え滾る渦が、蛇のようにゆらりと頭をもたげる。
(さらに、細く……より熱く!!)
炎の蛇は主の意志に沿うように、太い体躯を削ぎ落とし、研ぎ澄まされていく。
――そして同時に。
二人は猛烈な速度で、己が身を敵めがけて放った――!
最初に仕掛けたのは、和泉だった。
彼の手から放たれた赤き蛇が、目にも止まらぬ速さで大気を裂く。
そして、瞬く間に飛来する澪音へ――大きく口を開いた、その瞬間。
ジュッ!!
「疾驰吧,白日!!」
これまでにない怒気を込め、澪音が叫ぶ。
叫ぶと同時に放たれた白金の切っ先が、紅蓮の大蛇を切り裂いた。
さらに、そのままの勢いで和泉へ走る。
和泉は臆さない。前へ出て、迎え撃つ。
地面に滾る炎が舞い上がり、彼の肉体を包み――炎のベールと化した。
そして、そのベールを離れた白き刃が、切り裂く。
ボッ!!
だが和泉は、その一閃を僅かに首を傾けただけで躱す。
――完全に避ける気など、最初からない。
避けた右頬を切っ先が裂き、細い血の線が走る。
それでも和泉は、炎のベールをさらに纏った。
そして――
バンッ!!
激しい閃光とともに、炎のベールが弾ける。
圧倒的な炎が、澪音の眼前で爆ぜ飛んだ。
瞬間。
炎の中から、爆発の威力を乗せた和泉の身体が弾けて飛ぶ。
左手には、銀の刀身――逆手に握られた刃が見えた。
澪音は咄嗟に、深紅の組紐を引く。
すると後方へ跳んでいた刃が、意志を持ったかのように凄まじい速度で和泉へ迫る。
(これは、避けられまい!!)
そう確信した、その刹那――
ザクッ――。
和泉の動きに、一切の衰えはない。
飛び込んで来た白日の刃に対し、致命傷だけを外す最小限の動き。
――それでも刃は、深々と背へ突き刺さっていた。
平気なはずがない。
だが、彼の凄みは、さらに鋭くなる。
「!?」
瞬間、澪音の全身に、かつて見た光景が蘇る。
迫る鉄の巨体――。
異様なほど遅く流れる時間――。
うるさいほど鳴り響く踏切音――。
脳裏に浮かぶ、たった一文字。
“死”。
その時、主を守るべく、灰の番犬がその身体を顕現する。
「はああああ!!」
和泉は大気を切り裂く雄叫びとともに、振りかぶった拳を死灰へ叩き込んだ。
拳は、みしり、と音を立てながら――死灰の横腹へ吸い込まれていく。
「キャイィィィンン――!!」
死灰は痛ましい悲鳴を上げながらも、なお主を守るべく、地に爪を喰い込ませて耐える。
「カロン!!」
澪音は叫ぶと同時に、組紐を力いっぱい引いた。
すると和泉の背に刺さった小さな刃が連動し、彼の身体を宙へ跳ね上げる。
深々と刺さった刃先が抜け、闇が濃くなり始めた空へ、和泉の鮮血が舞う。
和泉はダメージを負いながらも、再び着地し、敵を見据えた。
澪音を守り切った死灰は、なお和泉へ威嚇の構えを取る。
だが――呼吸は荒い。
「……ここまで、だな」
和泉が、ぼそりと呟く。
その声は、はっきりと届いていた。
「……それは、どういうこと?」
愛する家族を傷つけられ、澪音の瞳には、初めて明確な怒りが灯る。
答えが何か――本人が一番よく分かっている。
それでも、問わずにはいられなかった。
「あんたの悪鬼……いや、死灰の正体をさ」
和泉のダメージは、誰が見ても深刻だった。
本来なら、これほど傷を負えば勝ち目は消えたと断じていい。
――だが、そんな不安と彼は無縁だ。
和泉の放つ気配と姿勢、そして何より相対する敵の態度が、両者の実力差を確定させていた。
「あんたの死灰は、名の通り身体が“灰”だ。だから俺のダメージは通らない。
……だが、死灰の攻撃だけは、俺に届く」
和泉の視線に、はっきりと力が込められる。
「でも、それは“見せかけ”だ。
――“死灰”とは、よく言ったものだな。
その灰の身体は、ただの入れ物でしかない」
澪音は押し黙った。
少年が得た解に、異を唱えられなかったのだ。
「死灰の本体……それは、そこにある“影”だ」
和泉が指さした先――地面に落ちる、死灰の影。
「……いったい、いつ気付いたの?」
澪音は笑みを浮かべる。
だが、これまでの余裕は、もうない。
「最初に、そいつと対峙した時からだ。
正確には――奴の攻撃を受けた時」
二人の間に、踏切音だけが虚しく流れる。
「最初に灰の肉体へ攻撃した時、俺の攻撃は通らなかった。だが、奴の攻撃は俺に当たった。
まるで灰の身体を自在に操るように見える……だが、そんな“無敵”があるなんて、道理が通らない」
和泉の手に、再び点火針が握られる。
「本当に“灰だけ”が本体なら、すれ違った瞬間にいくらでも攻撃できただろう。
……だが、しなかった。いや、できなかった」
澪音の荒くなる呼吸に呼応するように、彼女が想像した世界も次第に細部を失い、黒へ溶け始める。
「攻撃のタイミングで、影が灰の肉体へ入り込む――。
それで、死灰の殺傷力と防御力が担保されていた。
……が、からくりさえ見破れば、怖くなんてないってことさ」
少年の唱える道理は、まさしく真理であった。
そしてそれは、彼女と少年との戦いが――決着へ向かうことを意味していた。
(――でも、それでも!!)
澪音の手に、さらに力が込められる。
「だから、どうって言うの!?
勝負は、まだ決まってないわ!!」
叫びは、まるで自分を鼓舞するためのものだった。
「……ま、そうなるよな!!」
次の瞬間、二人の身体は再び宙を舞う。
澪音の意志に呼応し、世界は異邦者の排除へと傾いていく。
転がったバラスト、砕けたレールの鉄片が、少年めがけて放たれた。
だが、和泉を纏う炎の渦が、いとも容易くそれらを蒸発させていく。
異常なほどの火力。
(まだだ。もっと熱く! もっと繊細に!!)
高揚が集中を研ぎ澄まし、全身を走る痛みすら越えていく。
和泉の意識はただ一点――己がどこまで高みへ届くか、その一点へ注がれていた。
「はあああああ!!」
追い詰められた澪音も、少年の熱に当てられたかのように矛を収めない。
白金に光る白日の刃がうねり、敵めがけておもむろに首をもたげる。
これまでにないほど、軽い。
あまりの速さに、放った彼女自身ですら軌跡を追えない。
そして、それを追う死灰の後ろ姿――。
それは、まるでボールを追う子犬のようにすら見えた。
眼もくらむ速度で放たれた一撃。
だが――
パシッ!!
少年はいとも容易く、それを受け止めていた。
「カロン! やって!!」
それでも、少年の片手の動きを止めたのは確かだ。
死灰が、眼前の敵へ突っ込んでいく。
和泉はそれに合わせ、視線を送る。
業火が放たれる――はずだった。
(でも、今度こそは!!)
だが、澪音も死灰も、その脅しには一切動じない。
彼女たちもまた、死に物狂いなのだ。ここで臆せば、万が一にも勝機はない。
――しかし。
轟!!
地面から噴き出した業火が、攻撃のために“影”を伴って実体化した死灰の肉体を押し上げた。
死灰の爪が、少年の眼前で空を切る。
同時に、和泉は握った刃の紐を力いっぱい引き寄せた。
「くっ!?」
当然、紐を握る澪音の身体が引かれ、宙を舞う。
そのままバラストの敷かれた地面へ叩きつけられた。
衝撃が、華奢な身体を駆け巡る。
砂塵の中、なお彼女と“友”は立ち上がろうとするが――先ほどのダメージは想像以上だった。
彼女自身の損耗に加え、死灰が受けた業火の熱が、宿主である澪音へフィードバックされる。
今にも膝から崩れ落ちたかった。
もう、完敗だと言ってしまいたかった。
そもそも暗殺専門の自分が、彼とタイマンを張ろうとすること自体が間違いだ。
地力の差が、あまりにも違う。
澪音の脳裏を、様々な想いが駆け巡る。
――どうして、わたしなの?
――わたしが、何をしたっていうの?
――わたしはただ、親切には親切で返そうと思っただけなのに。
――父はいつも言ってくれた。
――「誠実であれば、そう悪いことは起こらないさ」
――でも、現実は違った。
――少女の小さなお節介が、大切な家族の命を奪ったのだから。
泣いていた“少女の記憶”が、ありありと甦る。
――ただでさえ弱い母の心は、あの事故以来、壊れてしまった。
――あの人の中では、夫も、愛犬も、そして愛する娘も……あの事故で“みな”死んだのだ。
どれほど泣いて謝っても、母は少女を見ようとしなかった。
――いや、見えてなどいなかった。
――だから、あの人が宗教のたぐいに救いを求めるのは、至極当然のこと……。
母はいつしか、“夢”という名の幻想を追い求めるようになった。
しまいには、その“夢”を見るためだと言って、違法な薬にまで手を出していた。
――だから、わたしはあの人の首に手をかけたのだ……。
訳の分からないことをのたまう母を、少女は見ていられなかった。
いや――その姿もまた、自分の罰なのだと理解してしまった。
――そんな時に、“あの人”がやって来た。
その女は、“真っ赤な傘”を手にして現れた。
「母の知り合いだ」という女は、天涯孤独となった少女の事情を察し、
自分たちの元へ来ないか――そう提案した。
「人は誰だって『夢』という名の『希望』を見たいものさ。君のお母様も、そうだった。
しかし――『夢を叶えられる者』は、そう多くない。
『夢を手に入れる資格』がないと、お話にならない。
でも、君にはその資格がある」
女は優しげに語り、そっと少女の頭を撫でる。
「君は――『夢を追う覚悟』は、あるかい?」
少女は、こくりと頷いた。
――それから、わたしは外導師となるための訓練を受けた。
――初めて他人を殺めた時、思いの外、なんともなかったことを覚えている。
――だって、大切な人を自分で殺したんだから。今さら赤の他人を殺めたところで、何も思わない。
「……そう。わたしは、ただ取り戻したかっただけ」
澪音は立ち上がりざま、小さく呟く。
「わたしは、ただ望んだだけ……マイナスを0にすることを!」
弾かれたように、澪音は和泉へ駆け出した。
「失った日常を取り戻したいと願うことが、そんなに悪い!!」
先ほどまでの戦い方ではない。
なりふり構わず、武器を振り回すだけ。
「ちょっとだけ幸せになりたいって思うことが、そんなに悪いこと!?」
駄々をこねる子どものようだった。
「赤の他人なんて、どうなっていい!!
だって、あの時だって、誰も!! 何もしてくれはしなかったわ!!」
いつの間にか、オレンジ色の空には灰色の雲が広がり、やがて雨が降り出した。
「なにが“不幸な事故だった”だ!?
なにが“いつか別れは訪れる”だ!?
ふざけんな! そんなことしか言えないなら、最初から何も言うな!!」
その姿を、死灰は黙って見つめていた。
「みんな! “目”で言ってるじゃない!!
“お前のせいだ”って!!」
和泉は、それを避ける。
避けるしかなかった。
彼女を受け止めることなど、誰に出来るというのか。
バシャッ!!
足がもつれ、澪音は水たまりに転げ落ちた。
「……だから、やってやった。
他人なんて、どうなろうとも、誰も気にしやしないんだから……」
ずぶ濡れになりながらも、澪音は何とか起き上がる。
「でも、可哀想だから、手向けの花は置いてあげたわ!
お父さんも、“誠実であれ”って言ってたし……」
ひゅっと、力なく投げられた白金の刃。
それは和泉の胸に当たると、からん、と音を立てて地面へ落ちた。
「あなたと戦えって言われた時……わたし、自分がただの駒だったって、やっと理解したわ」
澪音は、雨が降り続く空を見上げる。
「あなたがどんな生き方をしてるかを知るたびに、とっても嫌な気分になった……。
まるで、自分の生き方が間違いだったって、突きつけられてるみたいでね」
澪音が、雨に濡れた顔を向ける。
濡れた髪が目元にかかり、表情は見えない。
だが口元だけが――少しだけ、笑っているように見えた。
「それと……この任務が成功したらって、アカネから“夢”を見せてもらったの」
澪音は、自分の身体を抱きしめる。
「とっても、いい夢だった。まるで、“あの時”に戻ったみたい……」
そして澪音は、和泉へ視線を向ける。
その眼は、虚ろではない。
はっきりとした意志を宿していた。
「だから――これで、終わりにするね?」
雨の中を、澪音が走り出す。
その手に、白日の刃を抱えて。
和泉もまた、迎えるために刀を握りしめた。
「紡げ――《赤い一線》」
カン……カン……。
踏切の残響に紛れて、
ダン……。
二つの影が、雨の中で重なる。
「やっぱり……あなたなら、そうするって……分かってた」
「悪い……デートは、もう終わりだ」
点火針が、赤く――突き立っていた。
次回予告
戦いの終わりは、虚しい。
何を得て、何を失ったのか。
――誰にも分からない。少年自身にも。
だが、時は動く。
残酷なほどに。
夜空に咲く、大輪の花のように。
次話、「大輪と散る」
少年は“罪”を得て、ひとつ大人になる……。




