第61話「残響の果てに」
斬ったはずのものは、斬れていない。
届いたはずの刃は、手応えを残さない。
灰は裂けて、なお背後で形を成す――悪鬼《死灰》。
踏切の音が、淡々と世界を刻む。
笑みのまま、傷を隠す男。
憎しみのまま、“家族”を抱く女。
そして、紅蓮が天を裂く。
残響の果てに待つのは、勝敗か。
それとも――取り返しのつかない答えか。
灰色の闇が、咆哮と共に和泉へ牙を向ける。
凄まじいスピード。だが、その姿を目で追えないわけではない。
思考を挟む余地すらない刹那であっても、和泉は動きに合わせ、点火針の切っ先を振るう。
敵は、気持ちが良いほど真っ直ぐに――こちらへ突っ込んで来た。
そのタイミングを合わせるなど、和泉にとってはさほど難しくない。
和泉が振り下ろした一閃は、あっけないほどに狂犬の肉体を両断する。
――だが、しかし。
「むっ!?」
自身の手に、何の手ごたえもない。
その事実を、和泉は遅れて理解した。
思考が、ほんの数瞬、停止する。
敵は、それを見逃すほど甘くはない。
切り裂かれたはずの死灰の身体は、和泉の背後で再びその肉体を形成していた。
ガッ!!
振り下ろされた狂爪が、和泉の脇腹を抉る。
死灰は更なる追撃を加えんと、牙を剥いた。
「ちっ!!」
しかし、体勢を崩しながらも、和泉は手元から火のクナイを放つ。
火の一閃は死灰の灰の肉体をあっけなく通過し、そのまま霧散した。
――効かない。
だが、その僅かな間で、和泉は死灰との距離を開ける。
和泉の右脇腹から、だらだらとどす黒い液体が流れた。
それは“傷”のようでいて、この世界では――精神の損耗が可視化されたものでもある。
「すうううぅぅ――」
和泉が深く呼吸し、意識を整える。
すると、その流れは止まった。
ここは、敵が創り出したとはいえ、意識の世界だ。
現実の肉体が裂けたわけではない。
だが、精神が剥き出しになったここで受けるダメージは、精神そのものを確実に蝕む。
痛みは曖昧でも、損耗は残る。
そして、それが大きすぎれば、精神だけでなく肉体へも“現出”してしまう恐れすらある。
だからこそ、開現師を目指す者の多くは、精神へのダメージを具体的なイメージとして可視化し、自己管理できるように訓練する。
その気になれば、まるで“ダメージを受けていない”ように装うことも可能だ。
だが――和泉は、あえてその“隠す”行為を選んだ。
なぜなら。
「デートで、あくせくする所は見せたくないな…」
和泉の軽口に、澪音はふっと笑う。
その光景は、まるで本当にデート中の男女のようにすら感じられる。
二人の凶器と、一匹の怪物を除いては。
「さすがだね、百希夜君。
先ほどの一撃、本来なら致命傷になるところを――貴方の一撃で、カロンの攻撃が少しそれてしまったみたい」
そして彼女は、手にした刃を和泉に向けて問いかける。
「あまり、私の家族をいじめないでくれる?」
澪音はそう言うが、当の死灰はまだまだ元気そうである。
「ご冗談を」
「……やって、カロン」
澪音は返事の代わりに、再び自身の悪鬼を向かわせた。
「飛火剣!!」
またも飛び込んでくる灰色の狂犬へ、和泉は炎のクナイを放つ。
赤い軌跡が真っ直ぐ伸び、死灰の中へ潜り込んだ。
――刺さった感触はない。
煙の中へ物を投げ入れたように、赤い軌跡の中心から黒い肉体が吸い込まれ、やがて炎の線は見えなくなる。
死灰が吠える。
しかし――。
ボッ!!!
死灰の中に飲み込まれた飛火剣が、一気に爆散したのだ。
取り込んだ部分から、死灰の身体が分断される。
――だが、時を同じくして。
和泉は背に、強烈な殺意の波動を察知した。
澪音は自身の悪鬼を向かわせた瞬間、白日の切っ先を、すでに獲物めがけて走らせていたのだ。
「ぐっ!?」
和泉は咄嗟に、点火針の刀身でその攻撃を受ける。
ガキン。
乾いた金属音が、耳に刺さる。
「な、に!?」
突如、背に衝撃が走る。
ぐらつく身体を堪えようとするが、意識が澪音へ向いた刹那――背後が無防備になっていた。
和泉は目撃する。
伸びた黒い鞭のようなものが、自身の肉体を激しく打ち据えるのを。
――死灰の尾。
和泉の身体は、まるでピンボールのように地面を跳ね、弾かれていく。
線路に敷き詰められたバラストが激しく飛び散った。
やがて砂塵を上げながら、和泉は地へ伏す。
一方の澪音は、今が好機だとばかりに駆け出していた。
主人を追うように、死灰も駆ける。
「――これで!!」
勝利を確信した彼女だったが、瞬間――。
ぞっとする悪寒が、全身を包み込む。
それは半身の死灰にも伝わったのか、灰の毛並みを逆立て、最大限の威嚇を行った。
跳び出した両者の動きが、完全に止まる。
本来なら、こんな機会を逃すほど甘くはない。
だが、それでも“本能”がけたたましくアラートを鳴らしている。
砂塵の奥。
先ほどの攻防で倒れ伏したはずの少年へ向けて――。
「なあんだ……。
こっちへ、飛びついてくれないのかい?」
砂ぼこりに紛れて、炎が舞い上がる。
先ほどまでの火とは比べ物にならない、痛々しいほど真っ赤な炎。
舞い上がった砂を焼き、煙を一気に晴らしていく。
「悪鬼招来……《刃火血刹・鬼焔操流》」
澪音は瞬時に理解した。
舞い散る紅蓮の炎――それこそが少年の内に潜む、悪鬼のものだと。
ヒリつく感覚が全身を刺す。
たとえここが幻であろうとも、“あの炎”に触れれば、ただでは済むまい。
その恐れは、隣に控える死灰にも伝播していた。
主人を守ろうと虚勢を張るが――それが畏れの深さを、かえって晒している。
そして、かっと和泉の眼が開かれる。
先ほどまでとは違う、本気の眼。
呼応するように獄炎が唸り声を上げるが如く天へ舞い、
瞬間、オレンジと黒の世界は赤々と照らされた。
幻影だった太陽は隠れ、ただのレールと踏切しかない虚空が、炎に染まる。
やがて炎は、天を這う無数のムカデのようにうねり――次の瞬間、濁流となって澪音へ降り注いだ。
「カロン!!」
澪音の叫びに、死灰は主人の身体ごと後方へ大きく跳ぶ。
ゴオオオオオオ!!!
雪崩の如く灼熱の渦が、そこを包み込んでいく。
恐ろしいほどの光景だった。
これが、あの少年の放ったものだとは、にわかに信じがたい。
圧倒的なポテンシャルの違い。
まともにやり合えば、一気に片が付くだろう。
――だが、それは通常ならば、だ。
ここが、彼女によって生み出した世界である限り、
そのアドバンテージはそうそう埋まらないはず。
そう確信した澪音は、世界そのものを操り動かす。
火の海と化した地面が、空気を入れた風船のように膨れ上がり――
限界と共に、巨大な爆発が起こる。
熱せられたことでオレンジ色に煌々と光るバラストが、
吹き上げられた火山岩のように、和泉めがけて降り注いだ。
和泉は鬼焔を操り、それらを瞬時に消し炭へ変える。
――が、次には熱せられたレールが鞭のように横薙ぎとなり、彼を襲った。
ギイイイィィィ!!
耳をつんざく轟音を上げながら迫るレールを、和泉は点火針で両断していく。
レールは、溶けたバターのように飛沫を上げ、散った。
だが和泉が視線を上げると、レールを滑り降りてくる澪音の姿が見える。
「ふっ!!」
強烈な刃が、和泉めがけて放たれる。
和泉が後方へ飛び退くが――
ガッ!!
死灰が巨大な口を開け、和泉を飲み込まんとしていた。
「ならば!!」
和泉の意志に従い、紅蓮の炎が死灰を呑み込まんとする。
しかし寸でのところで、灰の身体は霧散し――再び和泉の背後を取る。
「二度も、同じ手を喰らうかよ!!」
和泉は残していた炎を、襲い掛かる死灰へ放った。
炎が死灰の身体を燃やす。
それでも凶爪が振り下ろされる――
ガキィン!!
だが、やはりダメージは入っている。
その攻撃は難なく、点火針の刀身で受け止められていた。
そして、大地を駆ける炎が無数のムカデのように、うねりながら澪音へと向かう。
火のムカデたちは一斉に跳ね上がり、炎の牙を剥いた。
しかし、地面が急激に隆起する。
澪音の世界が、そのまま攻撃を押し返したのだ。
――だが、燃え滾る紅蓮は凄まじい熱波となって、澪音へ降りかかる。
「くっ!?」
さすがに、これは防ぎきれない。
澪音は死灰の巨躯へ身を寄せ、灰の陰に抱かれるようにして、熱の余波を耐え抜いた。
一方の和泉も、その消耗は決して看過できない。
死灰から受けた傷も、“目に見える形で”現れていないだけで、回復したわけではない。
さらに、澪音が意志を強めたことで、この世界からの拒絶反応も増す一方だ。
(それに、いつまでもつかな……)
現在発動している《鬼焔操流》も、相当な集中力を要求される。
(できることなら、一気に決着をつけたいところだが……)
しかし、そういうわけにはいかない。
和泉の悪鬼たる白影――その紅蓮業火を操る《鬼焔操流》は、その気になれば、この世界ごと炎の奔流で包み込むことすら不可能ではない。
だが、囚われた人々がいる以上、この世界を崩壊させるわけにはいかない。
それに、そこまでの威力を発動すれば、下手をすると――再び白影が和泉の制御を離れ、暴走してしまう危険性を孕んでいる。
(厄介、だな)
(厄介、ね)
和泉と澪音。
二人は同時にそう感じ、次の一手で戦いが決することを予感した。
* * *
時は少し遡る。
和泉がシンボルタワーへ向けて駆け出した直後――。
「ん?」
大塚の携帯へ、和泉からメッセージが届く。
それは位置情報だった。
ピンが刺されているのは、シンボルタワー。
「――ここへ応援を寄越せ、ってことか」
先ほどの和泉の様子。
そして目の前で倒れている女性。来ている病院服からして、おそらく菩提府の関係者であることは間違いないだろう。
おおよそ、人質を救いたければ一人で来い――とでも脅されたのだろう。
だが、だからといって独断専行はまずい。
状況から察するに、相手は泡影教の刺客と見て間違いない。
それに、一連の列車事故……。
大塚の中で、ばらばらだったピースが、次々に繋がっていく。
(笠井の予見した通り、ってわけか……)
――ふと、昔のやり取りが脳裏をよぎる。
笠井が、あの子を弟子として迎え入れると言った時。
私は反対した。和泉の内に眠るもの――それは確かに素晴らしい。だが同時に、あまりにも強大すぎる。
いくら笠井でも、守り切れるとは限らない。
笠井の師である南もまた、判断に悩んでいた。
だから先輩である私へ、相談が回ってきた。
だが、私も南も、笠井の判断には反対だった。
――けれど、こいつも南の弟子だったのだ。
一度決めたことは、てんで折れやしない。
しまいには「自分一人でも見る」と、のたまい出した。
そんな弟子に、南もまた甘い。しっかりしているようで、とんだ“親バカ”なのだ。
そして、ただ一人、私だけが悪者扱いというわけさ。
「ああ、もう! あんたたちの好きにしな!! ただし、一つだけ条件がある」
「条件?」
笠井が、怪訝そうな顔でこちらを見る。
「勘違いするな。これ以上、お前たちの決定に口出しはしない。
しかし、だ。この話を聞いた以上、放っておくってことも、私の性分じゃあない」
「では、どうするんですか?」
南は察しているくせに、わざと聞いてきた。
「私も付き合うってこと! 笠井、あんた、前の一件で菩提府に居づらいんだろう?」
私の問いに、笠井は少し目を逸らす。
「なら、私の下で働きな!」
……まったく、誰に似たんだか。
呆れると同時に、大塚の顔にはどこか満足げな表情が浮かんでいた。
「――まあ、今は笠井を動かすことはできんし、他の子たちもすぐには動けまい。
となると――」
大塚が、かつての後輩に連絡を取ろうとした、その時。
ジイイイィィィ――
突如として、携帯が着信音を鳴らす。
画面に映し出されたのは――“南 沙織”。
「ああ、沙織か」
大塚は電話に出る。
「先輩、お久しぶりです」
電話口からは、かつての後輩――南の声。
「どうした。随分と突然じゃないか」
「突然、すみません。今日は、少し先輩にご相談がありまして」
「奇遇だね」
「え?」
電話口の南が、少し驚いたように声を上げる。
「私も、あんたに相談があって電話しようとしたのさ……。
いや――」
そして少し間を置いて、
「あんたのもう一人の“バカ弟子”にな」
次回予告
暮れ行く世界は、誰のため。
逝きゆく花は、誰の手向け。
微笑む貴方は、どこへ行く。
楽しい時間は、必ず終わる。
世界が夜を迎えるように。
刺して、その刃で。
次話、「あなたに“罪”を、わたしに“罰”を」
――デートの終わりは、後悔とともに。




