第59話「”デートは、いかが?”―前編―」
雨は、ただ濡らすだけじゃない。
人の心の輪郭を、静かに剥き出しにする。
駅前のシンボルタワー。
いつもの夕暮れのはずなのに、そこだけ空気が違う。
倒れている人々を、誰も“見えていない”。
呼ばれたのは、偶然か。罠か。
それでも――和泉は、行く。
これは、招待状から始まる悪夢。
“デート”と呼ばれた、美しき地獄への一歩。
和泉は、陽が傾きはじめた街を駆け抜けていた。オレンジ色の光が建物の輪郭を柔らかく縁取り、通りをゆるやかに包み込んでいる。
息が上がる。だが、立ち止まるという選択肢はなかった。
途中、彼女と初めて出会った踏切を渡る。
路肩の片隅には、数本のマリーゴールドが踏み荒らされ、茎の途中から無惨に折れていた。それでも花弁は、夕暮れの空から降り注ぐオレンジよりもさらに濃い色を湛え、燦然と咲いている。
踏みにじられてなお、そこに在り続ける色。
その光景に、和泉は一瞬だけ視線を奪われた。
通り過ぎていく風景。すれ違う人波。雑踏に混じる笑い声と、足音。
誰もが、いつも通りの夕暮れを生きている。何も知らず、何も疑わず、この街が今日も平穏であると信じて。
和泉は足がもつれそうになるのを堪え、ひたすら前へ進んだ。一歩、また一歩。自分が向かっている先を、できるだけ考えないようにしながら。
やがて、視界の先に塔が現れる。
水平線に沈みゆく夕日を背に受けて、きらきらと輝くその姿は街の象徴――駅前に建てられた、県の入口とも言えるシンボルタワーだった。
普段なら、多くの人々で賑わっているはずの場所。
だが今、そこには違和感しかない。
周囲の人間は気づいていない。だが、和泉には分かる。
塔の内側から、じわりと滲み出す気配。目に見えぬそれは空気を重く澱ませ、肌をざらつかせるような感触を伴っていた。
胸の奥で、何かが微かに疼く。眠っていたはずの衝動が、ゆっくりと目を覚まし始めている。
(――まずいな)
和泉は、無意識に奥歯を噛みしめた。
シンボルタワーは、すでに《鬼夢》に侵食されていた。
* * *
シンボルタワーの正面入口。その前の道路には、すでに何人もの人々が倒れていた。
意識を失ったまま横たわる者。うわ言を呟き、痙攣する者。誰一人として、まともな状態ではない。
鬼夢の毒牙に、完全に晒されている。
――だというのに。
信号を挟んだ駅前の歩道では、通勤帰りの人々が行き交い、スマートフォンを眺め、笑い、会話を交わしている。
倒れている人間を、誰一人として“認識できていない”。
和泉は、その光景を前に、短く息を吐いた。
本来ならば。単身で、こんな場所に踏み込むなど、許されるはずがない。
だが――。
和泉は、ためらうことなく一歩、前へ出た。
なぜなら、ここに倒れている人々。そして、おそらくタワー内部に取り残されている無数の人間は、
すでに――敵の手中に収められた“人質”だからだ。
さらに厄介なのは、今回の敵が無作為に鬼夢を発生させているわけではない、という点だった。
任意で。意図をもって。状況を選び、誘導し、発生させている。
このタワーそのものが、巨大な罠だ。
つまり――この中へ踏み込むということは、
敵の土俵へ、敵の思惑通りに、自ら身を投げ出すということに他ならない。
被害者であろうと。開現師であろうと。この状況下では、自身の身を完全に守る術など存在しない。
和泉は理解していた。
――今、鬼夢に取り込まれている人々は、“もう助からない可能性が高い”。
それが、開現師としての現実だ。
非情であっても、切り捨てなければならない場面は、確かに存在する。
たとえ救い出せたとしても、元の生活に戻れる保証など、どこにもない。
絶望的だ。
だが――。
完全な絶望、というわけでもない。
敵は、こちらへ接触してきた。
わざわざメッセージを送り、場所を指定し、“来い”と告げてきたのだ。
その意図を、和泉はまだ断定できない。
罠か。戯れか。それとも――。
だが一つだけ、確かなことがある。
それは、“付け入る隙が、わずかながら存在する”という事実だった。
迷っている時間は、ない。
すでに大塚には、位置情報を送っている。数時間もすれば部隊は編成され、強行突入が選択されるだろう。
そうなれば――被害は、今より確実に拡大する。
ならば。
今は、行くしかない。
たとえそれが、“一縷の望みに賭ける”という、プロ失格の選択だったとしても。
和泉は、静かに息を整えた。
そして――いずれ必ず対峙することになる相手を思い浮かべながら、
敵の居城たるシンボルタワーへと、自らの意識を深く沈めていった。
* * *
タワー内部で発生した鬼夢へ、和泉は自身の意識を沈めていく。
本来であれば、生の感情が剥き出しとなった鬼夢への侵入は、極めて危険な行為だ。他者の恐怖、絶望、執着、欲望――それらが無秩序に流れ込み、自我を摩耗させる。
言うなれば、素っ裸のまま、真冬の荒れ狂う海へ身を投げ出すようなもの。
ほんの一瞬、気を抜けば、意識は容易く引き裂かれる。
だが――。
和泉の内に宿る資質は、この鬼夢に立ち込める瘴気のような“感情”へ、紙一重で馴化していった。
拒絶せず、呑み込まれず。ただ、流れを読み、受け流す。
それでも、本来ならばドリームコンバータのような精神保護装置なしでは、精神汚染は免れない。
――にもかかわらず。
異物が侵入した際に生じるはずの、強烈な拒絶反応がない。
(……待たれているな)
和泉は、そう理解した。
鬼夢の内部構造は、元のシンボルタワーを基盤としている。だが、随所に夢特有の“歪み”が混じっていた。
行き交う人々の顔は、一見すると明瞭だ。目鼻立ちも、年齢も、性別も判別できる。
だが――視線を外した瞬間、それらは曖昧になる。
まるで、曇りガラス越しに見ていたかのように。意識を向け続けなければ、存在を保てない。
建物の構造もまた、同様だった。
確かに“それらしく”配置されている。だが、テナントの多くは現実のものとは微妙に異なっている。
意識しなければ気づかない。だが、意識した瞬間、ひどく不自然さが浮き彫りになる。
擬態した昆虫のように。
そんな歪んだタワーの奥。ひっそりと――だが、異様なほど明確に主張する存在があった。
エレベーター。
それは、和泉の視線が向けられた瞬間、まるで意思を持つかのように、ゆっくりと扉を開いた。
――おいで。
言葉にはならない誘いが、確かにそこにあった。
和泉は、ためらわなかった。
乗り込んだ瞬間、扉は静かに閉じる。そして、エレベーターは低い唸り音を立てながら、上昇を始めた。
上へ。ただ、上へ。
その間、和泉はずっと視線を感じていた。
壁でも、天井でもない。どこからともなく、無数に注がれる意識の名残。
それらの大半は、この鬼夢に囚われた被害者たちのものだろう。恐怖と混濁に溶け、もはや“見る”ことしかできない眼。
――だが。
その中に、一つだけ違うものがあった。
曖昧ではない。溶けていない。揺らいでいない。
はっきりとした自我を伴った視線。
それは、まっすぐに和泉を捉え、逃さない。
(……最上階、か)
答えは、考えるまでもなかった。
エレベーターは、なおも上昇を続ける。まるで、約束された場所へ導くかのように。
和泉は、静かに息を整えた。
――もう、引き返せない。
そして彼は、この鬼夢の“主”が待つ場所へ、確実に近づいていった。
* * *
静かに、最上階へ向かうエレベーター。
和泉は、窓から映る景色を眺めていた。
ここへ来た時と同じように、太陽は水平線へと傾きかけ、濃いオレンジの陽光をその水面に照らしていた。
とても、美しい光景だった。
だがしかし、どれほど美しく見せたとしても、ここに映るすべてが“幻”なのである。
どれほど本物と瓜二つに模写された油絵だとしても、それは「描かれた」美しさだ。
本物の美しさとは、ベクトルが違う。
そんな想いが和泉の意識を、この世界ではっきりとした個として誇示させる中、これまで最上階目指して上昇していたエレベーターがゆっくりと速度を落とし始める。
やがて、その歩みを止め、エレベーターは到着を知らせるチャイムと共に、ゆっくりその扉を開ける。
――さあ、降りて。
そうエスコートされているかのように、エレベーターは静かに止まっていた。
相手の手中にある以上、敵の思惑に従うほかあるまい。
(鬼が出るか、蛇が出るか……)
しかし、和泉は一切臆することなく、エレベーターから下車する。
敵が如何なる手練手管を練ろうとも、それを跳ね除ける確固たる意志が、その身に宿っていた。
扉から降りると、それまでずっと開いていた扉が再び固く閉ざされる。
ゆっくり閉じられた戸を見届けてから、和泉はゆっくり視線を前方へと向ける。
そこは、どうやら劇場のようであった。
床は所せましと赤い絨毯が貼られ、段々状になった客席は、階下の舞台目掛けてずらりと整列されていた。
和泉の視線が、階下の舞台へ向けられたのに合わせ、舞台へ照明が降りる。
――来て。
と言わんばかりの誘いに、和泉は静かに従う。
いくつかの階段を下り、和泉は適当に階段側の一席へ腰を下ろす。
和泉が座ると同時に、舞台の幕が上がる。
後編は、金曜日21時に更新予定です。




