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夢幻開現師 ―夢の守り人―  作者: ks21
第七章:死灰の残響編
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第59話「”デートは、いかが?”―前編―」

 雨は、ただ濡らすだけじゃない。

 人の心の輪郭を、静かに剥き出しにする。


 駅前のシンボルタワー。

 いつもの夕暮れのはずなのに、そこだけ空気が違う。

 倒れている人々を、誰も“見えていない”。


 呼ばれたのは、偶然か。罠か。

 それでも――和泉は、行く。


 これは、招待状から始まる悪夢。

 “デート”と呼ばれた、美しき地獄への一歩。

 和泉は、陽が傾きはじめた街を駆け抜けていた。オレンジ色の光が建物の輪郭を柔らかく縁取り、通りをゆるやかに包み込んでいる。


 息が上がる。だが、立ち止まるという選択肢はなかった。


 途中、彼女と初めて出会った踏切を渡る。


 路肩の片隅には、数本のマリーゴールドが踏み荒らされ、茎の途中から無惨に折れていた。それでも花弁は、夕暮れの空から降り注ぐオレンジよりもさらに濃い色を湛え、燦然と咲いている。


 踏みにじられてなお、そこに在り続ける色。


 その光景に、和泉は一瞬だけ視線を奪われた。


 通り過ぎていく風景。すれ違う人波。雑踏に混じる笑い声と、足音。


 誰もが、いつも通りの夕暮れを生きている。何も知らず、何も疑わず、この街が今日も平穏であると信じて。


 和泉は足がもつれそうになるのを堪え、ひたすら前へ進んだ。一歩、また一歩。自分が向かっている先を、できるだけ考えないようにしながら。


 やがて、視界の先に塔が現れる。


 水平線に沈みゆく夕日を背に受けて、きらきらと輝くその姿は街の象徴――駅前に建てられた、県の入口とも言えるシンボルタワーだった。


 普段なら、多くの人々で賑わっているはずの場所。


 だが今、そこには違和感しかない。


 周囲の人間は気づいていない。だが、和泉には分かる。


 塔の内側から、じわりと滲み出す気配。目に見えぬそれは空気を重く澱ませ、肌をざらつかせるような感触を伴っていた。


 胸の奥で、何かが微かに疼く。眠っていたはずの衝動が、ゆっくりと目を覚まし始めている。


(――まずいな)


 和泉は、無意識に奥歯を噛みしめた。


 シンボルタワーは、すでに《鬼夢(おにむ)》に侵食されていた。



   *  *  *



 シンボルタワーの正面入口。その前の道路には、すでに何人もの人々が倒れていた。


 意識を失ったまま横たわる者。うわ言を呟き、痙攣する者。誰一人として、まともな状態ではない。


 鬼夢の毒牙に、完全に晒されている。


 ――だというのに。


 信号を挟んだ駅前の歩道では、通勤帰りの人々が行き交い、スマートフォンを眺め、笑い、会話を交わしている。


 倒れている人間を、誰一人として“認識できていない”。


 和泉は、その光景を前に、短く息を吐いた。


 本来ならば。単身で、こんな場所に踏み込むなど、許されるはずがない。


 だが――。


 和泉は、ためらうことなく一歩、前へ出た。


 なぜなら、ここに倒れている人々。そして、おそらくタワー内部に取り残されている無数の人間は、


 すでに――敵の手中に収められた“人質”だからだ。


 さらに厄介なのは、今回の敵が無作為に鬼夢を発生させているわけではない、という点だった。


 任意で。意図をもって。状況を選び、誘導し、発生させている。


 このタワーそのものが、巨大な罠だ。


 つまり――この中へ踏み込むということは、


 敵の土俵へ、敵の思惑通りに、自ら身を投げ出すということに他ならない。


 被害者であろうと。開現師であろうと。この状況下では、自身の身を完全に守る術など存在しない。


 和泉は理解していた。


 ――今、鬼夢に取り込まれている人々は、“もう助からない可能性が高い”。


 それが、開現師としての現実だ。


 非情であっても、切り捨てなければならない場面は、確かに存在する。


 たとえ救い出せたとしても、元の生活に戻れる保証など、どこにもない。


 絶望的だ。


 だが――。


 完全な絶望、というわけでもない。


 敵は、こちらへ接触してきた。


 わざわざメッセージを送り、場所を指定し、“来い”と告げてきたのだ。


 その意図を、和泉はまだ断定できない。


 罠か。戯れか。それとも――。


 だが一つだけ、確かなことがある。


 それは、“付け入る隙が、わずかながら存在する”という事実だった。


 迷っている時間は、ない。


 すでに大塚には、位置情報を送っている。数時間もすれば部隊は編成され、強行突入が選択されるだろう。


 そうなれば――被害は、今より確実に拡大する。


 ならば。


 今は、行くしかない。


 たとえそれが、“一縷の望みに賭ける”という、プロ失格の選択だったとしても。


 和泉は、静かに息を整えた。


 そして――いずれ必ず対峙することになる相手を思い浮かべながら、


 敵の居城たるシンボルタワーへと、自らの意識を深く沈めていった。



   *  *  *



 タワー内部で発生した鬼夢へ、和泉は自身の意識を沈めていく。


 本来であれば、生の感情が剥き出しとなった鬼夢への侵入は、極めて危険な行為だ。他者の恐怖、絶望、執着、欲望――それらが無秩序に流れ込み、自我を摩耗させる。


 言うなれば、素っ裸のまま、真冬の荒れ狂う海へ身を投げ出すようなもの。


 ほんの一瞬、気を抜けば、意識は容易く引き裂かれる。


 だが――。


 和泉の内に宿る資質は、この鬼夢に立ち込める瘴気のような“感情”へ、紙一重で馴化していった。


 拒絶せず、呑み込まれず。ただ、流れを読み、受け流す。


 それでも、本来ならばドリームコンバータのような精神保護装置なしでは、精神汚染は免れない。


 ――にもかかわらず。


 異物が侵入した際に生じるはずの、強烈な拒絶反応がない。


(……待たれているな)


 和泉は、そう理解した。


 鬼夢の内部構造は、元のシンボルタワーを基盤としている。だが、随所に夢特有の“歪み”が混じっていた。


 行き交う人々の顔は、一見すると明瞭だ。目鼻立ちも、年齢も、性別も判別できる。


 だが――視線を外した瞬間、それらは曖昧になる。


 まるで、曇りガラス越しに見ていたかのように。意識を向け続けなければ、存在を保てない。


 建物の構造もまた、同様だった。


 確かに“それらしく”配置されている。だが、テナントの多くは現実のものとは微妙に異なっている。


 意識しなければ気づかない。だが、意識した瞬間、ひどく不自然さが浮き彫りになる。


 擬態した昆虫のように。


 そんな歪んだタワーの奥。ひっそりと――だが、異様なほど明確に主張する存在があった。


 エレベーター。


 それは、和泉の視線が向けられた瞬間、まるで意思を持つかのように、ゆっくりと扉を開いた。


 ――おいで。


 言葉にはならない誘いが、確かにそこにあった。


 和泉は、ためらわなかった。


 乗り込んだ瞬間、扉は静かに閉じる。そして、エレベーターは低い唸り音を立てながら、上昇を始めた。


 上へ。ただ、上へ。


 その間、和泉はずっと視線を感じていた。


 壁でも、天井でもない。どこからともなく、無数に注がれる意識の名残。


 それらの大半は、この鬼夢に囚われた被害者たちのものだろう。恐怖と混濁に溶け、もはや“見る”ことしかできない眼。


 ――だが。


 その中に、一つだけ違うものがあった。


 曖昧ではない。溶けていない。揺らいでいない。


 はっきりとした自我を伴った視線。


 それは、まっすぐに和泉を捉え、逃さない。


(……最上階、か)


 答えは、考えるまでもなかった。


 エレベーターは、なおも上昇を続ける。まるで、約束された場所へ導くかのように。


 和泉は、静かに息を整えた。


 ――もう、引き返せない。


 そして彼は、この鬼夢の“主”が待つ場所へ、確実に近づいていった。



   *  *  *



 静かに、最上階へ向かうエレベーター。


 和泉は、窓から映る景色を眺めていた。


 ここへ来た時と同じように、太陽は水平線へと傾きかけ、濃いオレンジの陽光をその水面に照らしていた。


 とても、美しい光景だった。


 だがしかし、どれほど美しく見せたとしても、ここに映るすべてが“幻”なのである。


 どれほど本物と瓜二つに模写された油絵だとしても、それは「描かれた」美しさだ。


 本物の美しさとは、ベクトルが違う。


 そんな想いが和泉の意識を、この世界ではっきりとした個として誇示させる中、これまで最上階目指して上昇していたエレベーターがゆっくりと速度を落とし始める。


 やがて、その歩みを止め、エレベーターは到着を知らせるチャイムと共に、ゆっくりその扉を開ける。


 ――さあ、降りて。


 そうエスコートされているかのように、エレベーターは静かに止まっていた。


 相手の手中にある以上、敵の思惑に従うほかあるまい。


(鬼が出るか、蛇が出るか……)


 しかし、和泉は一切臆することなく、エレベーターから下車する。


 敵が如何なる手練手管を練ろうとも、それを跳ね除ける確固たる意志が、その身に宿っていた。


 扉から降りると、それまでずっと開いていた扉が再び固く閉ざされる。


 ゆっくり閉じられた戸を見届けてから、和泉はゆっくり視線を前方へと向ける。


 そこは、どうやら劇場のようであった。


 床は所せましと赤い絨毯が貼られ、段々状になった客席は、階下の舞台目掛けてずらりと整列されていた。


 和泉の視線が、階下の舞台へ向けられたのに合わせ、舞台へ照明が降りる。


 ――来て。


 と言わんばかりの誘いに、和泉は静かに従う。


 いくつかの階段を下り、和泉は適当に階段側の一席へ腰を下ろす。


 和泉が座ると同時に、舞台の幕が上がる。

 後編は、金曜日21時に更新予定です。

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