第58話「静かなる臨界」
世界は、何も変わっていないように見えた。
だがその内側で、確実に“何か”が臨界へと近づいている。
残された言葉。
途切れた命。
そして、名指しで差し出された招待状。
それぞれが別の場所で、別の思惑を抱えながら――
同じ一点へと、静かに収束していく。
これは、嵐の前の沈黙。
まだ剣は振るわれていない。
だが、引き金はすでに引かれているのだ。
長く白い廊下の一角で、二人の男女が並んで立っていた。
ここは、菩提府が管理する総合病院――近頃頻発している列車事故。
その要因とされる鬼夢被害者の収容によって、病床はすでに限界に近づいている。
慌ただしく行き交う医療スタッフの間を縫うように、新たな患者が一室へと運び込まれてきた。
患者の名は、吉田 沙里。
菩提府所属の開現師。 彼女は同じチームの開現師二名とともに、列車事故の被害者宅を訪問していた。
ここ数日、被害者たちが共通して見る悪夢――それが、この一連の事件を首謀する者が意図的に残した“疑似餌”であることは、もはや明白だった。
その“残り香”を追っていた最中、捜査に当たっていた開現師たちは奇襲を受けた。
吉田のチームもまた、その例外ではない。
――そして彼女は、今のところ唯一の生存者だった。
一連の事件の指揮を執る《聖斂隊》にとって、彼女の証言は犯人に迫るための最大の手掛かりになるはずだった。
だが――現実は、そう単純ではない。
「それで……例の患者の様子は?」
低い声で問いかけたのは、聖斂隊副隊長・小水内 悠だった。
神経質なほど整えられた短髪。その一本一本が、彼の思考の癖をそのまま映し出しているかのようだ。
「芳しくありません」
隣に立つ女性が、ガラス越しに病室を見つめながら答える。
「こちらの問いかけにも、ほとんど反応がない状態です。担当医の見立てでは……もって数日だと」
部下の女性は静かに、だが凛とした声で答える。
二十歳そこそこの年齢ながら、理知的な眼差しと均整の取れた顔立ちを持つ女性だった。
肩口で揃えられた黒髪には、淡く紫を帯びた色味が差している。
二人が立つこの部屋は、取調室を思わせる構造をしていた。
壁一面は特殊加工されたガラス張りで、隣の病室の様子を一望できる。
もちろん、病室側からこちらを見ることはできない。
小水内は無言のまま、ガラス越しに視線を移した。
その向こうでは、看護師がベッドに横たわる吉田の容態を確認している。
「……せっかく掴んだ、唯一の足取りだというのに」
抑制された声で、小水内は言った。
「実は……彼女のことで、もう一つ」
真理は躊躇なく続ける。
「担当医の話では、毎晩、うわ言を呟いているそうです」
「……内容は?」
「『赤き火は灯された』……と」
その言葉を聞いた瞬間、小水内の視線がわずかに鋭くなった。
「……赤き火」
一瞬。
思考の奥で、忘れかけていた概念が、微かに反応する。
「何か、心当たりでも?」
真理の問いは、静かだった。
「確証があるわけではない」
小水内は即答しなかった。
「ただし、無視できない違和感がある」
彼自身、その感覚をまだ言語化できずにいた。
「ともかく」
小水内は言葉を切り替える。
「真理君。君は、引き続き彼女の経過を監視してほしい。変化があれば即時報告を」
「了解しました」
一拍置いて、真理は尋ねる。
「……副隊長は、この後どうされるのですか?」
小水内はすでに扉の前に立ち、ドアノブへ手をかけていた。
「確認すべき人物がいる」
「……隊長、ですか?」
「違う」
短く、しかし断定的に否定する。
「かつての師だ」
* * *
それから、そう時間は経っていなかった。
小水内が患者・吉田沙里の脱走を知らされたのは、菩提府本部へ戻り、かつての師――南 沙織と極秘裏に面会していた最中だった。
携帯端末が短く震える。
小水内は一瞬だけ視線を落とし、即座に通話へ応じた。
『副隊長、至急ご報告があります』
『患者の容体が、ここ数時間でわずかに回復傾向を見せ……医師の判断で、短時間の歩行を許可していました』
一拍。
『その最中、患者が突如離脱。現在、所在不明です』
小水内は目を閉じた。
――想定の範囲内だ。
「敵による暗示の影響だろうな」
冷静に告げる。
「いずれにせよ、脱走は時間の問題だった」
『……申し訳ありません。私の監督不行き届きです』
「違う」
即座に否定した。
「対応を君一人に留めたのは、私の責任だ」
一切の感情を交えず、事実として述べる。
「責任の所在は事件終結後に整理する。今は――」
声が、わずかに低くなる。
「逃走者の確保が最優先だ」
『……了解しました』
一瞬の沈黙。
「真理君」
『はい』
「部隊を再編制してくれ。それも、出来る限り腕が立つ者を」
『承知しました』
「――対象の確保に移行する」
通話はそこで切れた。
小水内は、間髪入れずに専用回線へ指を伸ばす。
聖斂隊・隊長直通回線。
事態は、静かに、しかし確実に臨界点へ向かっていた。
* * *
澪音と出会ってから、かれこれ数日が経っていた。
和泉がこの町に滞在するのも、今日が最後の日だった。
だが――当然のことながら、あれ以来、澪音の姿を見ることはなかった。
例の踏切へ足を運ぶことは何度かあった。
しかし、彼女が現れることは一度もない。
それでも、踏切の端に手向けられた色鮮やかなマリーゴールドだけは、定期的に新しいものへと替えられている。
――連絡先を、聞いておけばよかったか。
彼女から渡された、シルクの美しいハンカチを見るたびに、そんな思いが胸に浮かんでは消えた。
不思議なものだ。
澪音という女性と出会ったのは、あの驟雨のほんの一瞬の出来事にすぎない。
それなのに、彼女の存在は、和泉の中から決して塵芥のように消え去ることはなかった。
なぜなのかと問われれば――一番その答えを知りたいのは、和泉自身だった。
聞く者が聞けば、「それは恋だ」と囃し立てるかもしれない。
だが――違う。
そんな単純な言葉で片付けられる感情ではなかった。
彼女の存在は、色鮮やかに鮮明であると同時に、喉に刺さった小骨のように、和泉の心をざわつかせる。
(本当は、俺はその理由を――)
そんな思考がノイズのように胸を走る中、和泉は滞在最終日でも、すっかり日課となったランニングに出ようとしていた。
玄関に出て、ランニングシューズへ履き替えようとした――その瞬間。
和泉は気づく。
目と鼻の先。玄関の扉を隔てた向こう側に、誰かが立っている。
――チャイムは鳴ったか?
いや、そんな音は聞いていない。
何者であれ、まともな相手ではない。
それだけは、はっきりと分かった。
冷たいものが、背筋を一気に駆け上がる。
(どうする……所長のところへ戻るべきか――)
居間には、大塚とその親戚がいる。
今すぐ知らせるべきか。
そう思った瞬間、和泉は次の一手を選んでいた。
手にしていたシューズを、音を立てぬよう、そっと床へ置く。
そして、扉の向こうにいる“何か”へ背を向けることを避け、玄関を正面に据えたまま、ゆっくりと後ずさろうとした、その時だった。
――呼吸音。
扉の向こうから、人間の生々しい吐息が漏れ出し、和泉の肌を撫でた。
なぜか分からない。だが、相手は和泉の動きを察知している。
急激な緊張に、全身に鳥肌が立つ。
その一呼吸にも満たぬ膠着の末、ついに――相手が動いた。
『……和泉 百希夜さん、ですね』
女の声だった。
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がる。
(女!? なぜ俺の名前を!? 敵か!? 叫ぶか!? 走れ――!)
思考が堰を切ったように暴走する。
だが、その混乱を制するように、姿の見えぬ女は淡々と語り続けた。
『そんなに心配しないでください。私は、あなたにメッセージを届けるよう言われて、ここへ来ました』
警鐘は鳴り止まない。
それでも、和泉の直感は告げていた。この女自身に、直接の害意はない。
だが――彼女に“憑りついている何か”が放つものは、紛れもない悪意だった。
「……メッセージ?」
和泉は意を決して問い返す。
『はい……』
女の声は柔らかい。だが、感情がない。
まるで、録音された言葉を再生しているかのように。
そして、女は一拍置いて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『シンボルタワーで待ってる。できたら、あなた一人で来てほしい――』
その瞬間、和泉の中で散らばっていたピースが一気に噛み合った。
だが、女は続ける。
『でないと……大勢の人が、悲しむことになる』
その言葉を合図に、胸の奥で燻っていた怒りが、一気に烈火へと変わる。
――ドサッ。
扉の向こうで、何かが倒れる音がした。
同時に、空気にまとわりついていた悪意が、すっと消える。
「おい!!」
和泉は即座に扉を開ける。
扉が何かに当たって止まった。
覗き込むと、やはり女が倒れている。
その服装から、彼女がどこかの病院から抜け出してきたのだと、和泉は悟った。
「おい、大丈夫か!」
物音に気づいたのか、居間から大塚が飛び出してくる。
「どうした、何が――」
倒れた女を見て、言葉を失う。
「所長! 彼女をお願いします!!」
和泉は叫ぶと同時に、すでに玄関を飛び出していた。
「おい、待て! どこへ行くつもりだ!!」
「後で説明します! 今は、彼女を――!!」
止める間もなく、和泉の背中は遠ざかっていく。
そして彼は、“待つ者”のいる場所――駅前のシンボルタワーへと駆け出した。
オレンジのマリーゴールドが刺繍されたシルクのハンカチを、ポケットに忍ばせて。
次回予告
沈黙に包まれた、シンボルタワー。
倒れ伏す人々と、広がる鬼夢の中、
和泉はただ、最上階を目指す。
「デート、しましょう?」
その瞬間、世界は落下する。
次話――
第59話「”デートは、いかが?”」
開かずの踏切――
因縁が重なる。




