第56話「逢魔が時の夢の果て」
穏やかな午後ほど、油断は深い。
何も起こらないと信じた、その隙間に――
“逢魔”は静かに忍び込む。
日常の裏で刻まれる異変。
何気ない行動が、思いもよらぬ影を招く。
これは、
逢魔が時に交錯した夢の、その果ての物語。
「ったくよ……これじゃ完全に貧乏くじだぜ」
「そう言わずにいきましょうって、山本さん」
オレンジ色の光が線路脇のバラストを焼き、二人の影がやたらと長く伸びている。夕暮れは美しいのに、空気はどこか湿って重い。夢の中によくある、“息苦しい粘度”を帯びていた。
「おい、西村! 敵の尻尾、絶対掴めよな!!」
スキンヘッドの男――山本が、先導する慧珠へ怒鳴る。
『そんな無茶ですよ。さっきから探してますけど……痕跡ひとつありませんよ』
「はぁ〜……こりゃ“坊主”かねえ」
山本が頭をぽりぽり掻いてぼやく。横で歩く伊藤が吹き出した。
「山本さん、それ面白いっすよ。坊主だけに――」
「伊藤! てめえも、調子に乗ってねぇで探せ!!」
「分かってますって」
まるで夕陽より赤い山本の機嫌。無理もない。彼らは連日、“ある事件”を追って、被害者が残した夢の残滓へ潜り続けているのだ。
「でも、これって本当に“連中”の仕業なんですかね?」
伊藤はオレンジ色の空を見上げる。
「さぁな。ただ、上のお偉いさんの慌てっぷりを見る限り……冗談じゃねぇだろ。なんせ“聖斂隊”まで引っ張り出してんだ。あいつらが動くのは、本物のヤバさだ」
二人の影が黒く伸びて、ひどく心細く見えた。
「泡影教、何を狙ってるんですかね……。毎日のように事件ですよ」
伊藤の言う“事件”。
それは四国・中国地方を中心に連日発生している、“突発的な鬼夢現象”による連続被害だ。
被害者の性別、年齢、職業はバラバラ。だがただ一つ――“ある夕刻、走行する列車に乗り合わせていた”という共通点があった。
さらに犯人は、意図的に“残滓”を残している。「追ってこい」と言わんばかりの、あまりにも挑発的な方法で。
だからこそ、今彼らが潜入しているのが――この、“逢魔が時の夢”。
だが、足取りはつかめない。何度も空振りに終わった任務の倦怠が、三人の間にじわりと染み出していた。
「どうせ今回も空振りだろ……」
山本が吐き捨てた、その直後だった。
カン、カン、カン、カン……。
耳元で、不意に“警告音”が跳ねた。
カン、カン、カン、カン……。
踏切の警告音が、夢にそぐわぬ“生々しい金属音”となって、彼らの背後へ突き刺さる。
「っ……!? 先輩、これ……!」
伊藤が振り向いた瞬間、
そこには、さっきまで存在しなかったはずの“踏切”が立っていた。柵も線路も、あり得ないほど精密に再現されている。
「西村! どうなってやがる!?」
『鬼夢が急激に活性化しています! 本部にも連絡を――』
慧珠の声がノイズ混じりに揺らぎ、世界の色がゆっくりと褪せていく。
沈むように陽光が消え、夕焼けは墨を流したように暗転した。
カン、カン, カン, カン……。
警告音だけが、まるで世界の中心のように響き続ける。
「嫌な……気配がする」
山本の声がかすれた。ただの直感ではない。開現師として死地を踏んだ経験が告げていた。
これは――“来る”と。
「……っ、先輩。あれ……」
伊藤の指差す線路の奥。深い闇の底から、ふたつの光がこちらへ向かって伸びてくる。
最初は遠い点だった。だが、瞬きをするたびに確実に大きく、強く、速く。
『ライト……? 車両……?』
言いかけた西村の声が止まる。
光はあり得ない角度で、“上下”している。一定のリズムで、規則正しく。呼吸にすら見える奇妙な周期。
「違う……目だ……」
伊藤が呟いた。
闇の中を滑る、|淡金色《たんこうしょくの双眸。
線路を走る車両よりもはるかに速く、なめらかに。しかも“こちらを見ている”。
「来るぞ――!!」
山本の叫びが闇を裂いた瞬間。
――ザンッ
視界が、傾いた。
遅れて聞こえる、何かが切断される湿った音。
続けて“自分の身体が崩れ落ちる”音。
山本は理解する間もなく倒れ込んだ。
伊藤の身体もまた、胸のあたりから静かに分かたれる。
どちらにも、痛みは訪れなかった。
ただ、世界が遠ざかる。
カン、カン、カン、カン……。
警告音だけが、彼らの死を嘲笑うように鳴り響き続ける。
『山本さん! 伊藤さん! 応答してください!!』
西村の声が木霊するが、応えはない。
線路沿いには、二つの骸が闇に溶け落ちるだけ。
そして――その先に残ったのは、
淡金色の残光が、ひとひらだけ揺れて消えた気配。
* * *
玄関を出ても、特に行くあてがあるわけではなかった。
和泉はただ、気の向くまま道を歩き出す。
家のすぐ横を、大きな河がゆったりと流れている。
海の近いこの町では、河はやがて海へと溶けるように合流し、潮の匂いを運んできた。
(……磯の香り、か)
内陸で育った彼には、まだ馴染みの薄い匂いだ。
だが、この町の人々にとっては、きっと当たり前の風景なのだろう。
のんびりとした水面。
ゆるりと吹く風。
戦いの日々とは無縁の穏やかさが、かえって落ち着かなかった。
カン、カン、カン、カン……。
耳に届いた警告音に、和泉は顔を上げる。
気がつけば、今朝も通った踏切の前に来ていた。
遮断機が降り、人々が列を成して足を止める中、和泉はふと向かい側へ視線をやる。
「あれは……」
線路脇の路肩に、オレンジ色の花びらが散らばっていた。
今朝、祈りを捧げていたあの女性が置いていった花束――その残骸だった。
カン、カン、カン、カン……。
列車が通り過ぎ、風が和泉の頬をかすめる。
遮断機が上がると、彼は自然とその場所へ足を向けていた。
しゃがみ込み、一つひとつ、落ちた花を拾い上げる。
(……マリーゴールド)
掌に乗せた花は、強いオレンジ色をした鮮やかなマリーゴールドだった。
太陽の色のようでいて、どこか物悲しい色。
少しだけ迷いながらも、和泉はそれらを丁寧に集め、元あった場所へそっと手向け直す。
「……なぜ、こんな所に花を」
誰に問うでもなく、ぽつりと零れる。
町の穏やかさと、この小さな“祈りの跡”が、どうにも噛み合わない。
和泉の胸の奥で、言葉にならない違和感だけが、静かに揺れていた。
その時――。
線路の向こう側から、こちらを見つめる人影があった。
オレンジ色の花に触れる少年の姿を、ただ静かに。
気づかれることのないその視線は、やがて真夏の陽炎に揺らめき、溶けるように消えていった。
* * *
――まったく、最悪だ。
軽い気持ちで、山上にある寺院を目指して長い坂道を登りはじめたのが間違いだった。
ふと鼻腔に雨の匂いが満ちたかと思った次の瞬間、空気を裂くような豪雨が降り注ぐ。
ためらう暇もなく、和泉は山頂の寺院へ向けて全力で駆け上がった。
だが――手遅れだった。
身体はすでにびしょ濡れで、靴の中もぐしゃりと音を立てている。
山門に辿り着いた頃には、息は荒く、肩が大きく上下していた。
「……はぁ、はぁ……っ」
膝に手をつき、荒い呼吸を整える。
急激に上がった体温を冷まそうと、汗が止めどなく流れ落ちた。
濡れた衣服では吸水も期待できず、雫は石畳に落ち、暗い斑を広げていく。
――まったく、最悪だ。
引き返せばよかった。
だが、暇を持て余すと、人は普段なら選ばない行動を取ってしまうらしい。
(寺巡りなんて……似合わないこと、するんじゃなかった)
気色悪さと疲労が混ざり、気持ちは一気にしぼんでいく。
(……もう帰ろう。
玲之さんには悪いけど、こんなところに居たら、暇に押しつぶされるだけだ)
踵を返そうとした、その時だった。
背中に――視線を感じた。
反射的に顔を上げる。
そこに、女性が立っていた。
白いワンピース――いや、ベトナムの民族衣装“アオザイ”に似た丈の長い上衣。 スリットから覗く黒いパンツが、白との対比で異国の空気を纏わせている。
肩まで流れ落ちる、絹糸のように柔らかな黒髪。
切れ長の瞳は一見すると冷たいが、その奥に宿る微かな微笑が、印象を和らげていた。
そこだけ、雨も風も届いていないかのようだった。
一瞬で、空気が変わる。
――静かで、澄んでいて。
まるで、夢の中の人物が現実に滲み出てきたような感覚。
和泉は、言葉を失った。
「突然の雨……嫌になっちゃいますね」
女性はそう言って、しとどに降り続く雨を見上げた。
その声音は静かで、独り言のようでもあった。
「……あ、えっと……そうですね」
一瞬、その言葉が自分に向けられたものだと気づけず、和泉は間の抜けた返事をしてしまう。
女性は、そんな和泉の様子を見て、くすりと小さく笑った。
和泉は、その笑顔をただ呆然と見つめていた。
気恥ずかしさ以上に、この場の現実感のなさに、どう反応すればいいのか分からなかったのだ。
「ごめんなさい……急でしたよね。
あ、よかったら、これ使ってください」
そう言って、女性はポケットから一枚のハンカチを取り出し、和泉へ差し出した。
「……どうも」
反射的に、それを受け取る。
(……柔らかい)
指先に伝わる感触はさらさらとしていて、明らかに上質だった。
端には、黄色の糸で小さな花の刺繍が施されている。
詳しいわけではないが――安物ではないことだけは分かる。
「こんないいもの……使うのは、申し訳ないです」
慌てて返そうとした和泉だったが、女性は軽く首を振った。
「お気になさらないで。他にも同じもの、持っていますから」
そこまで言われてしまえば、断る方が失礼だ。
「……ありがとうございます」
もう一度会釈をして、和泉はハンカチで額を拭った。
汗なのか雨なのか分からない水分が、すっと吸い取られていく。
頬をなぞる布地は心地よく、そこから漂う香りは、金木犀の花の香りを思わせる上品なものだった。
「ここへは、観光で来られたんですか?」
何気なく尋ねた和泉の言葉に、女性は一瞬、目を丸くする。
切れ長の瞳がぱっと開かれ、その美しさの奥に、年相応のあどけなさが垣間見えた。
「あ……すみません。観光の方かと思って……」
すると女性は、意表を突かれたように、再び笑い出した。
「ごめんなさい。日本語、おかしかったですか?」
ひとしきり笑ったあと、目尻に溜まった涙を細い指でそっと拭う。
「いえ……なんとなく、日本の方じゃないのかなって。そんな気がして。
突然、失礼しました」
「まあ、誤解なさらないでください。別に気を悪くしたわけではありませんよ」
そう前置きしてから、女性は少しだけ姿勢を正し、和泉と向き合った。
「日本語には、けっこう自信があったんです。
こちらに来ても、日本人だと間違われることが多かったですし――」
そして、穏やかな声で続ける。
「私の名前は、澪音と言います。
中国から留学してきました」
「そうなんですか、中国から。
自分は、和泉と言います」
和泉は頷き、ハンカチを手にしたまま言った。
「和泉さん、ですね」
澪音は、柔らかな笑顔を見せる。
「でも、おっしゃる通り、日本語上手ですね」
「ええ。
父が昔、日本で過ごしたらしくて……父から日本語を教わったんですよ」
それから、暫し言葉を交わした二人の間に、沈黙が訪れる。
「僕は、和泉です。これ……ありがとうございました。洗って返したいんですが……」
和泉は言いかけて、どう切り出せばいいのか分からず、言葉が途切れる。
「ああ、そんなこと、気にしないでください。
それに……これは、ほんのお礼です」
「お礼?」
澪音の言葉に、和泉は困惑する。
当然、彼女とは初対面のはずだ。
少なくとも、ここへ来てから彼女と出会った記憶などない。
「ええ……。
実は以前、あなたが私の置いた花を拾ってくださったのを、お見掛けしましたので」
「……花」
すぐには理解できなかった。
だが、一つひとつのピースが埋まっていくように、和泉の中で記憶が結びついていく。
そして、やがて答えへと辿り着いた。
「もしかして――あのマリーゴールド……」
「はい。あれは、私が置いたのです」
今も止まぬ雨の中、二人は向かい合っていた。
この出会いが、ただの偶然ではないことを、 まだ誰も言葉にはしていない。
だが確かに――
それは、これから辿る一つの悲劇へと繋がる“入口”だった。
次回予告
雨の中で出会った、名もない縁。
穏やかな時間の裏側で、列車を巡る“悪夢”は静かに拡大していく。
それは偶然か、必然か。
そして――赤い傘が、再び境界に現れる。
次回、第57話「揺らぐ驟雨の先で」。
逢魔が時は、もう始まっている。




