第55話「揺らぐ居場所」
夏の休暇――。
ほんの少し離れるだけで、日常は驚くほど脆く揺らいでしまう。
理恵は名家の静謐に押しつぶされ、
杏樹は忘れられた“普通の世界”に打ちのめされ、
亜子は過去と現在の狭間で、胸の奥に巣くう影と向き合わされる。
彼女たちが選んだ帰省先は、
本来なら“帰る場所”であるはずの場所だった。
けれど――
そのどれもが、少しずつ、確かに軋み始めている。
そして、遠く離れた闇の中では“死灰”が静かに蠢いていた。
いつか必ず交わる影が、休暇の終わりを告げるように。
軽い夏風の裏で、何かが音を立てて動き出す。
「お嬢様、迎えの車が到着いたしました」
落ち着いた声とともに、メイド服の女性──藤本 梓が頭を下げた。
「分かったわ……。
ありがとう、梓」
理恵は微笑んだ。
だが、その笑みは柔らかくはない。
口角だけを動かした、薄い仮面のような笑顔だった。
梓はその表情を見ても、何も言わなかった。言えなかった。
車内では、走行音だけが響いている。
理恵は背筋を伸ばし、両膝をそっと揃え、まるで誰かの視線を常に意識しているかのような姿勢で座していた。
黒の部隊で見せていた“少女の素顔”はどこにもない。
ここにいるのは――來瀬川家の御令嬢、そのものだった。
(……お嬢様は、ほんの数時間で“こちらの世界”へ戻ってしまわれる)
梓は胸の奥が痛むのを感じた。
嫌いなのは理恵本人ではない。
この家が彼女に被せる、“名家の仮面”が嫌いなのだ。
(黒の部隊へ入ると聞いた時は……反対でしたが)
危険だからという理由もある。
だが本当は――
(あちらの世界で、お嬢様が“お嬢様でいられなくなる”のではないかと思ったから)
それだけが怖かった。
……しかし、実際はまるで違った。
黒の部隊での理恵は、むしろ生き生きとしていた。
初めて、“本当の意味で”微笑むようになった。
(あんなに楽しそうな表情……いつ以来だったかしら)
(──お姉様がまだ家に居らした頃以来……)
車が門を抜け、美しく刈り込まれた庭園へ入る。
完璧な外観。整った緑。静謐すぎる空気。
まるで息が詰まるほど整いすぎた“檻”。
屋敷の前で車が止まり、梓は素早く日傘を開いた。
「御足もとにお気を付けくださいませ、お嬢様」
「ありがとう、梓」
理恵が車を降りると同時に、梓は迷いなく陽射しを遮る。
門前には、整列した使用人たちが一斉に頭を下げた。
「「「お帰りなさいませ、理恵御嬢様」」」
揃えられた声。儀式のような歓迎。
理恵は微笑む。
だがやはり、その笑みはどこか冷たい。
「皆、ありがとう。
……ところで、お父様とお母様は?」
「大切なご用事がありまして。
……夜にはお戻りかと」
「……そう。分かったわ」
その一瞬、理恵の目から光が消えた。
梓は胸を締め付けられるような痛みを覚える。
(……お嬢様。
やはり、ここは“帰るべき家”ではなく、
“戻らざるをえない場所”なのですね)
夏の陽射しが理恵の後ろ姿を白く照らす。
その姿は、どこか取り残された影のようだった。
──そして、理恵が気づかぬ場所で。
黒い影が静かに潜んでいることを、 まだ誰も知らなかった。
* * *
“間もなく5番線に東京行きが参ります――”
「さてっと」
アナウンスに合わせて、赤毛の少女・杏樹は小柄な体で大きな旅行鞄を抱え直した。
発車した車両の窓に流れる景色を見ながら、小さく呟く。
「何だか、とんとん拍子で……逆に怖いくらいだなぁ」
彼女が開現師としての才を認められたのは小学校の卒業前。
クラスで流行った“夢占いごっこ”に端を発した鬼夢事件が、
杏樹の中に眠っていた悪鬼――才能を強制的に呼び覚ました。
そこから彼女の“平凡”は静かに終わった。
聖堂院へ進み、期待に応え、才能を伸ばし、
気づけば誰よりも前を歩いてしまっていた。
(……誰も、追いついてこなかったなぁ)
それは誇りであると同時に、杏樹を孤独にしていった。
そんな人生の軌道が再び変わったのが、黒の部隊への配属。
あの瞬間から、杏樹の世界はまた動き出したのだ。
――ジリリリリ。
イヤホンのアラーム音に杏樹は肩を跳ねさせた。
「……寝てた。やっば」
『間もなく、東京』
ホームに降り立つと、菩提府から派遣されたタクシーが待っている。
(……VIP扱いだよなぁ、どう考えても)
浅草に入って数分。
観光客で賑わう通りを離れれば、途端に路地は静かになる。
古びたコンクリートの道。
軒先に干された洗濯物。
金魚の泳ぐバケツ。
油の染みた匂い。
遠くで鳴る寺の鐘。
(……懐かしい)
胸が少しだけ高鳴る。
路地を抜けた、そのとき。
「あっ」
向かいから女子高生のグループが来る。
その中のひとり──見慣れた顔。
「……ミイナ」
思わず名前が出た。
ミイナも杏樹に気づき、目を見開く。
数年間の空白が、一瞬だけ埋まる。
「どうしたの、ミイナ? 知り合い?」
取り巻きが声をかける。
ほんの一瞬、何かを躊躇う間があった。
しかし次の瞬間――
「えー、知らないよ。あんな子」
杏樹の伸ばしかけた手が、空中で止まる。
「ほら、早く行こうよ。売り切れちゃう!」
すれ違いざま、ミイナの瞳が杏樹を一瞬だけ見た。
それは“再会の驚き”ではなく――
拒絶の色だった。
少女たちの笑い声が遠ざかる。
浅草の下町に、ひとり取り残された杏樹は、
胸の奥で何かが静かに落ちる音を聞いた。
(……そっか)
つぶやいた声は、小さく震えていた。
──路地裏の奥。
誰かがこちらを一瞬だけ見つめていたことを、
杏樹は知らない。
* * *
同じ頃。
空港のロビーでは、別の少女が椅子に腰かけていた。
夏休みの喧騒。
スーツケースの音。子どもの声。アナウンス音。
無数の音が、天井で混ざり合う。
亜子は大きなガラス窓に目を向けた。
滑走路へ、旅客機がゆっくりと降り立つ。
白煙がふわりと広がる。
(……来た)
胸の内が少し熱くなる。
搭乗口から人々が流れ出る。
再会を抱きしめる家族。
写真を撮る学生。
足早に通り過ぎるビジネスマン。
その中に。
「……先生!」
自然と声が零れた。
「出迎えありがとう。元気だった、亜子?」
大ぶりのサングラスを外し、柔らかな眼差しを向ける女性。
小沢 良子。
かつて亜子を、泡影教の施設から救い出した開現師。
本来なら亜子は菩提府の厳しい監視下に置かれるはずだった。
だが小沢は上層部を押し切り、亜子を自らの弟子として引き取った。
(先生のそばに……いたかった)
だが、黒の部隊配属の辞令が届き、二人は再び別々の道へ進んだ。
「こっちも、今回のでひと区切りよ。
……でもね」
良子は窓の外へ目を細める。
「連中の動きが、活発になってるわ」
“連中”。
泡影教の名が、亜子の胸に影を落とす。
赤いスポーツカーに乗り込み、高速道路を走る。
車内では小沢の好きな曲が流れ、車体が低く唸る。
流れる景色。
ひとつひとつの家に生活があり、人生がある。
(わたしは……生きてるんだよね)
助けられなければ、自分はこの世界を見ていなかった。
そして、
(……みんなが、笑ってた)
最近出会った仲間たちの顔が浮かぶ。
ぶっきらぼうな自分を、自然に受け入れてくれた人たち。
「何だか……少し明るくなったんじゃない?」
小沢がルームミラー越しに微笑む。
「そう……見えます?」
「ええ。以前よりずっと」
その言葉が嬉しい。
だが同時に、胸の奥で黒い影が揺れた。
(……わたしは、“幸せ”になっていいの?)
自分だけが生き残った。
仲間も家族も奪われたのに。
そんな自分が笑っていいのか、まだ分からない。
「今度、みんなで花火大会に行くんでしょ?」
「先生……どうして知ってるんですか?」
「私って、案外親バカなのよ。
つい所長に聞いちゃって」
照れ笑いする師を見て、亜子は少しだけ息を吐いた。
「で、行くのよね?」
即答したいのに、言葉が出ない。
「……ええ、まあ」
胸の奥が痛む。
それでも――少しだけ、温かかった。
小沢は何も言わない。
亜子が自分で前へ進める日が来るまで、
そばで見守ると決めているからだ。
──しかし。
光のさらに向こう、夜明け前の闇で。
“死灰”の暗躍が本格的に動き出すことを、
亜子たちはまだ知らない。
次回予告
それぞれの場所で、
それぞれの「居場所」を探し続ける少女たち。
一方その裏で、
夕刻の列車を舞台に、正体不明の“影”が動き始めていた。
穏やかな夏の日常と、
忍び寄る逢魔の気配。
交わるはずのなかった線が、
静かに――そして確実に、重なり始める。
次回、第56話「逢魔が時の夢の果て」。
出会いは新たな戦いと悲劇を生む。




