第54話「朝焼けの残影」
――朝焼けの空が、すべてを染め上げていた。
静けさの中、街はまだ夢の続きを見ている。
けれど、その眠りの底で、確かに“何か”が蠢いていた。
祈るように花を捧げるひとりの女性。
その姿を見た少年は、知らず胸の奥で何かが軋むのを感じる。
失われたものと、まだ知らぬ痛み。
それらが交わるとき、朝焼けは静かに燃え始める――。
朝日が、ゆるやかに天高く昇りはじめた頃。
俺はお世話になっている玲之さんの実家へと向かっていた。
もっとも、“実家”といっても、そこに両親の姿はもうない。
玲之さんのご両親は、彼女がまだ幼い頃に亡くなっている。
その後、遠縁の親戚に引き取られ、今日に至るという。
――死因は、“泡影教”による無差別テロ。
玲之さんの誕生日。
家族で街のデパートへ出かけたその日、
不運にも泡影教が引き起こした鬼夢に巻き込まれ、両親は帰らぬ人となった。
彼女がそのことを語ったのは、ある晩のことだった。
「そんな不幸話……。
このご時世、いくらでもあるものさ」
淡々とした声色。
だが、あのときの横顔だけは――今でも鮮明に憶えている。
その瞬間、胸の奥で眠っていた“鬼”が微かに蠢いた。
(……そう、よくあることだ)
悪鬼による鬼夢事件に携わるようになって、
少しは誰かを救えてきたのかもしれない。
だが、それはたまたま――運が良かっただけのこと。
救えなかった命の方が、多い。
開現師となる際、笠井先生にも言われた。
――「救えぬ命に縛られるな」と。
けれど、その言葉はいまも胸に刺さったままだ。
心の奥では、何一つ割り切れてなどいない。
そんな俺の内面を嗅ぎ取ったのか、
体の底で“魔蟲”がざわめいた。
怒りとも哀しみともつかぬ衝動が、静かに這い寄る。
(……俺も、いつかは覚悟を決めねばならないのか)
朝の陽ざしが強くなるにつれて、町がゆっくりと息を吹き返していく。
通りを行き交う人々の数も、いつしか増えていた。
――カン、カン、カン、カン……。
耳元に、踏切の音が鳴り響く。
黄色と黒の遮断機が降り、人と車が列を成している。
誰もが小さな沈黙を胸に抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
俺もまた、その群れの一人として、無意識のうちに足を止めていた。
こうしていると、これまでの戦いの日々がまるで嘘のようだ。
時々、思う。
――今、この場所、この瞬間に立っているのが、夢幻のような気さえする。
見上げれば、空にはもう大きな積乱雲が湧き上がっていた。
白い峰のような雲の奥では、きっと雷が息をしている。
(……気を抜けば、あの雲へと飛んでいってしまいそうだ)
そんな馬鹿げたことを思いながら、無意識に頬を掻いた。
ふと、踏切の向こうに視線をやる。
「あれ……?」
人の列の奥――誰かがしゃがみ込んでいた。
女性だろうか。
その人は、小さく手を合わせ、何かを祈っているように見えた。
――ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
列車が視界を遮る。
連結音が鼓膜の奥で反響し、思考がわずかに途切れた。
車両が通り過ぎたとき、もうそこに彼女の姿はなかった。
遮断機が上がり、人々の流れが再び動き出す。
俺もそれに続き、踏切を渡る。
通り過ぎざまに、彼女がいた場所へと視線をやった。
路肩に、小さな花束が置かれている。
――オレンジ色のマリーゴールドが、風に揺れていた。
誰のための花なのか、考える間もなく、人波が背中を押した。
俺もそのまま流れに飲まれ、足を進めた。
……ただ、背後で風が鳴った気がした。
まるで、誰かが“名もなき祈り”を呟いたように。
* * *
駅前の通りを、一人の女性が歩いていた。
灰を溶かしたような黒髪に、淡い金を宿した瞳。
Tシャツにジーンズという、何の変哲もない装い。
だが、その姿には――現実から一歩だけ外れたような、儚い美しさがあった。
夏の湿った風が髪を揺らす。
陽光が反射し、その瞬間だけ、通りを行き交う人々の視界に彼女の姿が焼きつく。
――だが、誰も足を止めない。
まるで最初から、彼女がこの世界に存在していなかったかのように。
彼女は、人の流れに紛れ、自身を世界のノイズへと溶かし込む術を心得ていた。
しばらく雑踏を歩いていた彼女は、ふと流れから外れ、路地裏へと足を向ける。
その動きはあまりにも自然で、誰一人として――彼女の消失に気づく者はいなかった。
路地裏は昼なお暗く、湿った空気が漂う。
そこに、ビルの室外機の横で一人の女が壁に背を預けていた。
「――“彼”はどうだった? 澪音」
声をかけられた澪音は、足を止めた。
ただし、その視線は雑踏の方を見たままだ。
「……別に、何とも。あんな子が、本当に今回の対象なの?」
その声色には、感情の起伏がない。
まるで機械が音声を再生しているかのような、無機質な響き。
「さすが、“死灰”ね。
あなたにかかれば、彼もその程度ってことかしら」
相対する女はくすりと笑い、室外機の上に腰を下ろす。
赤みを帯びた髪を後ろで束ね、真夏にもかかわらず黒いスーツを纏っている。
反射熱が肌を焼くほどの気温の中で、汗一つ見せない。
「それより――アカネ。任務の詳細を」
澪音の言葉に、女――アカネはふっと口角を上げ、懐から封筒を取り出す。
差し出された封筒には封蝋が押されており、澪音はそれを受け取ると、無言で目を通した。
「今は、“彼”の捕獲は保留。
それより、“向こう”のワンちゃんたちが貴方を追ってるわよ」
「……いつも通り、蹴散らせばいいのね。
方法は?」
「任せるわ。
期が熟したら、また知らせる」
「……お尻、汚れるよ?」
「あら?」
アカネは軽やかに室外機から立ち上がると、服の裾についた埃を払った。
小さな笑みを浮かべながら、まるで子どもをあやすような柔らかさで言う。
「じゃあ、がんばってね。あなたの働き、期待してるわ」
そう言い残すと、アカネの姿は影に溶けるように掻き消えた。
音も、気配も、まるで最初から存在していなかったかのように。
澪音は小さく息を吐き、封筒の中身――任務書を取り出す。
そしてポケットからライターを取り出し、無言で火を灯す。
白い炎が指令書を舐め、紙が静かに黒へと変わっていく。
やがて、燃え尽きた灰がふわりと宙に舞い上がった。
澪音はその光景を一瞥すると、踵を返して歩き出す。
――朝の風に乗り、灰は空へと溶けていった。
まるで、これから訪れる闇の予兆を告げるかのように。
次回予告
仲間と離れ、三人はそれぞれ“戻るべき場所”へ帰っていく。
名家の静寂に閉ざされる理恵。
地元で、かつての友と出会う杏樹。
過去の痛みと今の幸せの狭間で揺れる亜子。
それぞれの日常に落ちたひびは、やがて交わり始める。
──そして、闇の中で“死灰”が動き出す。
次回、第55話『揺らぐ居場所』。
静かな崩壊は、もう始まっていた。




