第53話「夏の余白」
燃え尽きた戦いの熱が、まだ肌の奥に残っていた。
止まった時間が、ようやく動き出す――そんな夏の終わり。
束の間の休暇、そして、それぞれの帰路。
蝉の声に混じって、かすかな記憶の残響が胸の底をかすめていく。
まだ誰も知らない。
その静かな夏の日々が、やがて“逢魔の刻”へと続いていることを――。
ジジジジジジ――。
まだ日も昇りきらぬというのに、電信柱に張りついた蝉が、息せき切って鳴いていた。
すでにアスファルト舗装の道は、朝の陽光に照らされて輻射熱を放っている。
これでは、飼い犬の散歩ひとつ出るのもためらわれるだろう。
一通り、日課のジョギングを終えた和泉は、額ににじむ汗をぬぐいながら息を整えた。
脳裏では、どうでもいい思考が泡のように浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。
――夏の朝というのは、そういう時間だ。
「……おお、もうこんな時間か」
スマートフォンに表示された時刻を見た和泉は、慌てて動画アプリを開き、最近の日課になりつつあるラジオ体操の動画を再生する。
イヤホンから流れる軽快なリズムに合わせて身体を動かしながら、ふと、これまでの経過を思い返した。
* * *
笠井先生から休暇を命じられた和泉は、特に予定もなく、夏の終わりまでをどう過ごすかに頭を悩ませていた。
そんな折、所長の大塚 玲之から呼び出しがかかる。
「和泉か、こっちへ」
所長室の扉を開けると、玲之さんが笑顔で迎えてくれた。
笠井先生と同様に付き合いは長いが、玲之さんはまた違う意味で“上の存在”だ。
師である笠井先生が現場の炎なら、玲之さんは組織を束ねる氷。
かつて笠井先生の師の先輩にあたり、俺にとっては“師の師”のような存在なのだ。
大塚探偵事務所に入って以来、いくらか距離は縮まったつもりだが、それでもどうしても頭が上がらない。
「何だ? そんなに固くなるな。取って食おうってわけじゃないさ」
緊張する俺を見て、玲之さんは肩をすくめた。
「は、はあ……」
不意の呼び出しにどう返せばいいか分からず、声が裏返る。
玲之さんはそんな俺を見て、静かに笑った。
現役を退いたとはいえ、その内に眠る“牙”はいまだ衰えを知らない。
ここにいる多くの女性職員の中でも、玲之さんはまさしく“キャリアウーマン”の象徴だった。
理恵の品の良さとは違う、現場で磨かれた強さと気品がある。
「単刀直入に聞くが――和泉、お前、休暇中の予定は決まっているか?」
思いがけない問いに、少し戸惑いながら答える。
「い、いえ……特には」
「そうか」
玲之さんは何かを確かめるようにうなずくと、デスクに両手をつき、少し身を乗り出した。
「なら、私の里帰りに付いてこないか?」
「え……?」
その提案に、思わず間抜けな声が漏れた。
まさか休暇の行き先が、所長の“実家”になるとは思ってもみなかった。
* *
「へぇー、よかったじゃん! トッキーも夏の予定が決まってさ!」
訓練終わりに、杏樹から休暇中の予定を聞かれ、俺は玲之さんの実家にお世話になることを話した。
あれから笠井先生は検査入院となり、訓練は一時中断。
それでも俺たちは、休暇までの数日を使って自主練として集まっていた。
突然の提案にもかかわらず、三人とも最終日まで参加してくれた。
……そういうところが、このチームのいいところだ。
「ところで、所長のご実家はどちらなんですか?」
「ああ、たしか香川の方だって聞いた」
「おおっ! なら、お土産はうどんで決まりだね!」
杏樹が目をキラキラさせながら、俺の方にぐいっと顔を寄せてくる。
「あのなぁ……俺は別に遊びに行くわけじゃ――」
たしなめようとしたそのとき、横の理恵まで楽しげに頷いていた。
「私も、おうどん自体あまり食べたことがなかったので……楽しみです!」
「お嬢様、酢橘を入れて召し上がるのもおすすめでございます」
いつの間にか理恵の付き人である藤本 梓さんまで現れ、当然のように話に加わっている。
「さすが、和泉くん!
気が利くね。ねえ、亜子ちゃん」
七瀬 花奈さんがいたずらっぽく笑うと、亜子も少し頬をかきながら小さく頷いた。
「うん……。
私も、食べたことない」
意外にも、今回の自主練には亜子も全日参加していた。
きっと彼女なりに、何か変わろうとしているのだろう。
「はあ……分かりましたよ」
結局、押し切られる形で俺は妥協した。
「それで、りえっちはお屋敷に帰るの?」
「そ、そうですね。しばらく帰ってなかったので……。杏樹さんは?」
理恵が珍しくしどろもどろになりながら答え、すぐに話題を逸らす。
「わたしも一緒。家族も心配してるだろうしね」
杏樹は腕を後ろで組み、空を仰いだ。
「あこっちは、どうするの?」
「もうすぐ師匠が日本に戻るから、そっちに行く」
三者三葉、それぞれの夏があるらしい。
「そっか~」
杏樹が空を見上げ、しばらく黙り込む。
蝉の声が、どこか遠くで濁って聞こえた。
「あれ、杏樹ちゃん、難しい顔してどうしたの?」
花奈さんが首をかしげると、杏樹は「あー」と曖昧な声を漏らし、腕を組んだ。
「いやさ、せっかくの休みだし、みんなで何かやろうと思ってたんだけど……。
みんな忙しそうでさ」
「何か、予定でもあるのですか?」
理恵が問うと、杏樹は首を振る。
「別にこれってものはないけど、ほら……夏っぽいこと、やりたいなって」
その言葉に、理恵の表情がぱっと明るくなる。
「それは素敵ですね!
ぜひ、やりましょう!」
理恵の勢いに押されて、杏樹も笑顔を取り戻した。
「よし! なら、海! 海とかどう!?」
杏樹の提案に、即座に亜子が首を振る。
「パス。水着に着替えるの、恥ずかしい」
「俺も、パスかな」
「何よ~、少年。恥ずかしがるなよ~」
花奈さんがにやにや笑いながら、俺の肩をぐりぐり押す。
……何を考えているかは、聞かずともわかる。
「う~ん、そっか~」
再びうなり出す杏樹の様子を見て、ふと俺は笠井先生の言葉を思い出した。
「あっ、そうだ」
全員の視線がこちらに向いた。
俺は鞄から、笠井先生にもらった“例のチラシ”を取り出す。
「ん~? なになに?」
興味津々の面々が、机に広げられた紙を覗き込む。
「おおっ! いいじゃん、花火大会!」
杏樹が満面の笑みを浮かべて叫んだ。
「そうですね、花火大会なら参加しやすいですし。亜子さんもどうですか?」
理恵に声をかけられ、亜子は一瞬だけ目をそらした。
「えっと……わたしは」
「いいじゃん、亜子ちゃん。せっかくの機会だし」
花奈さんが優しく肩を叩くと、亜子は小さくうなずいた。
「でも、もう一つインパクトが欲しいかなぁ」
杏樹がまた腕を組み、唸り出す。
「そうですわ! 皆様、浴衣を着ませんか? 私、何着か持っていますので」
理恵が両手を合わせて提案した。
「それだ! それこそ夏のクライマックスって感じ!」
杏樹が指を鳴らして喜ぶ。
「では、着付けもありますし……」
「そうだね。集合時間は――」
笑い声が重なり、部屋の空気が一気に明るくなる。 夏の終わり、最後の想い出づくりとして――花火大会が決まった。
* * *
かくして、俺は玲之さんの実家がある――ここ「阿賀洲町」へとやって来たのだった。
『5~、6、7、8――』
気づけば、ラジオ体操の掛け声が終わりに差しかかっていた。
「しまった……ぼうっとし過ぎたな」
朝日が差し込む河川敷で、ぽつりとつぶやく。
空気はすでに温んでいて、川面には白い陽炎が揺れていた。
見上げると、路線電車の踏切橋が青く佇んでいる。
錆びた鉄骨の向こうで、ひとつの車輪が光を跳ね返した。
することもなく、俺は家路へと歩き出す。
鳥の声と蝉の鳴き声が混じり合い、世界がどこか遠くに感じられた。
――この見知らぬ町で。
遠い記憶の底に沈んでいた“残響”が、再び姿を現すなど。
この時の俺には、想像もつかなかったのだ。
次回予告
静かな夏の朝――。
止まった時間のように、踏切が鳴り続ける。
交差するのは、過去と現在、そして“祈り”の残響。
その手に花を捧げる女を見たとき、
和泉の中で、何かが微かに軋み始める。
名もなき花、燃え残る灰。
朝焼けの空の下、運命の歯車が再び動き出す――。
夢幻開現師 第54話「朝焼けの残影」
それは、静寂の中で始まる“邂逅”の予兆。




