第40話「黄昏の戦姫」(前編)
笠井の必殺の一撃によって機織鬼は打ち倒された――かに見えた。
だが、その殻を突き破って現れたのは、さらに凶悪な第二の姿「蟻婆」。
黒光りする甲殻と巨大な大顎を備えたその悪鬼は、まさに地獄から這い出た魔蟲だった。
圧倒的な力を前にしても、亜子は退かない。
過去に囚われ、仲間を守れなかった悔恨を背負う少女。
その彼女が、いま仲間と共に“己の意志”で戦うことを決意する。
*第40話は、前後編になります。
闇の底から、ずるりと蠢く漆黒の魔蟲が姿を現した。
硬質な殻が擦れ合い、ぞわりと耳を苛む不快音が空間を満たす。
「……珍しいな。分離型か」
笠井は目を細めた。
先ほどの一撃で機織鬼は確かに葬ったはず。
だがその肉体の奥を裂いて現れたのは――まったく別の悪鬼。
「わしゃぁ……『蟻婆』じゃよォ」
甲殻は漆黒に濡れ、大顎は岩すら噛み砕きそうな鈍色の刃。
ただ立っているだけで周囲の空気を押し潰し、視界すら歪ませるような圧を放っていた。
「ふん……いくら分離したところで、一気に仕留めれば――」
笠井が踏み込もうとした瞬間、その肩を押し留める者がいた。
「……ボス。ここは、交代」
前に進み出たのは――川合 亜子。
「……いいのか」
低く問う笠井に、亜子は迷わず頷いた。
その瞳には、これまで迷いに閉ざしていた心を越えた、確かな決意の炎が宿っていた。
『笠井さん……! 私からもお願いします!』
花奈の声が慧珠を通じて震える。
笠井は短く目を閉じ、息を吐いた。
やがて口元にわずかな笑みを刻み、告げる。
「……いいだろう。――川合亜子。奴を倒せ!」
その一言が、戦場の空気を一変させた。
少女の瞳が、漆黒の悪鬼を真正面から射抜く。
「ほっほほほぉ……! 何じゃ、モルモット風情が相手とはなァ!」
蟻婆は醜悪な笑い声を上げ、大顎をカチリと鳴らした。
その奥底なぶる嬲ってから連れ去る算段すら透けて見える。
だが――亜子は怯まず、ただ一歩を踏み出した。
『亜子ちゃん、私がサポートを――』
「いらない。……わたし一人でやる」
硬質な声音。
次の瞬間、少女の身体は矢のように走り出した。
蟻婆の前脚が閃き、鋭利な槍のように突き出される。
だが亜子は風のように翻り――間合いを詰める。
「――遅い!」
掌底が甲殻を叩き抜く勢いで放たれた。
ドガッ!
衝撃が響いたが――。
(……硬い!)
拳は痺れ、蟻婆はびくともしていない。
「小娘ェ……舐めるなァッ!!」
大顎が振り上げられ、刃のように振り下ろされる。
ガギィンッ!!
寸前で跳んだ亜子の耳元を冷風が裂き、背後の地面が粉砕される。
砂煙の中、亜子は体勢を低く構え――反撃の蹴りを叩き込む。
ドシュッ!
巨体がわずかに揺らぐ。
だが衝撃は甲殻に吸収され、手応えは浅い。
「無駄じゃァ!!」
薙ぎ払われた爪が亜子の頬を掠め、血の線が浮かぶ。
鉄の匂いが鼻を刺し、彼女は歯を食いしばる。
「……ッ!」
蹴撃を重ね、亜子は巨体を揺らす。
その姿は必死ではなく――怒りを冷たく凝縮させた戦士の姿だった。
「何? もうボケちゃったの?」
冷たい一言が蟻婆を挑発する。
複眼がぎょろりと動き、醜悪な笑みを浮かべた。
「たまたま生き残った小娘が……調子に乗るなよォ!」
大顎を開き、甲殻を爆ぜさせる。
「ガアアアアアアアアア!!」
咆哮と共に飛び散る石礫の豪雨。
だが亜子は退かない。
掌で弾き、腕で払い、身体で受けてでも――一歩を踏み出す。
「……うるさい……!」
血を流しながらも、亜子の声は鋼の芯を帯びていた。
「あたしは――誰のものでもない。生き方は、あたしが決める!」
宣言と共に疾駆。
石礫を抜け、拳が一点を穿つ。
ベキッ!
「な、なにィッ!?」
蟻婆の腕の節がへし折られた。
防御の中で、唯一覆い切れぬ関節。
亜子はそこに攻撃を集中させていたのだ。
「ぐぅ……貴様ァァ!!」
怒声と共に暴れる蟻婆。
だがすでに、均衡は揺らぎ始めていた。
――後編へ続く。




