第37話「忍び寄る魔の手」
忌まわしい記憶を語った川合亜子。
その影の深さに触れた花奈は、ただ静かに寄り添い、彼女の心に小さな道をつくろうとしていた。
夕暮れの駄菓子屋で交わされる小さな会話。
涙と笑顔が交錯するひとときに、二人の距離はわずかに縮まっていく。
だが――その背後では、すでに異様な影が蠢いていた。
島に潜む「泡影教」の魔手が、亜子を狙い忍び寄る。
温もりの中に差し込む冷たい気配。
黒い陰謀が、静かに牙を剥こうとしていた――。
「……やっぱり難しいですね」
亜子が部屋を出ていった後、花奈はぽつりとつぶやいた。
「俺は、押すのが下手でな」
笠井は肩をすくめ、くすりと笑う。
その姿は、花奈が幼い頃に憧れた兄の面影を思わせた。
「でも、このままじゃ説得できないかも」
「いいさ。人は、待ってやることも大事だからな」
笠井の言葉に花奈は小さく頷き、窓の外に目をやる。
そこには、小さな背中が夕陽を背に校舎を出ていく姿があった。
慌てて追いかけると、亜子は駄菓子屋にいた。
店主から袋を受け取り、慣れた仕草で赤い酢だこを口に放り込む。
その素朴な姿は、重苦しい告白をした少女とはまるで別人のようだった。
「……ご一緒しても?」
声をかけると、亜子は一瞬だけ迷い、酢だこを頬張ったまま小さく頷く。
二人は店先のベンチに腰を下ろした。
夕陽が町を朱に染め、長い影が路地を伸ばしていく。
蝉の声は弱まり、夜の気配が忍び寄っていた。
「……勧誘、しないの?」
亜子が飴玉を差し出す。
花奈は小さく笑って受け取り、答えた。
「私はその役じゃないし……笠井さんだって、無理に引っ張ろうとはしてないよ」
甘酸っぱさが広がり、張り詰めていた心が少し緩む。
「亜子ちゃんは、駄菓子が好きなの?」
「……うん。昔は、食べられなかったから」
その言葉に、花奈の胸がきゅっと締め付けられる。
「……どうせ、あたしは他の子たちとうまくできないと思う」
亜子の瞳に、かつての小さな墓標の残影が映る。
花奈は静かに頷いた。
「……難しいよね。でも、一緒にいることで少し楽になるなら、それでいいんじゃない?」
不思議なことに、花奈の隣では自然と心の奥が言葉になった。
亜子は小さく微笑み、ぽつりと呟く。
「……もう少し考えてみる」
「そっか、それは嬉しい」
夕陽に照らされた花奈の笑顔が、かつての友人たちの笑顔を重ねる。
その瞬間――亜子の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「え、ええ!? 亜子ちゃん!?」
慌てる花奈を見て、亜子はくすりと笑った。
花奈もつられて笑い返す。
過去の影が、ひととき和らいでいく――。
――その時。
「おやおや……仲睦まじいことじゃのう」
背後から、粘つく声。
振り向けば、駄菓子屋の老婆が立っていた。
深い皺に覆われた顔が、にたりと吊り上がる。
笑っているはずなのに、凍えるような寒気が背を走る。
花奈は即座に立ち上がり、亜子を庇った。
「……すみません。そろそろ帰ります」
「いやいや、急ぐことはないじゃろう」
声音は柔らかい。
だが、耳にまとわりつく不気味さがあった。
老婆の視線は一度も花奈に向かず――ただ、亜子にだけ注がれている。
「行こう、亜子ちゃん」
花奈が手を引こうとした瞬間。
老婆の身体がぬらりと前に出た。
皮膚の下から異様な気配が滲み出す。
「さぁ……おいで。あんたの“中”にあるものは――わしらのものじゃ」
「……あなたは、一体……!?」
花奈の声が凍る。
老婆は、もうただの住人ではなかった。
「……だめ。もう、囲まれてる」
亜子の低い声。
振り返れば、通りの影に白いローブの人影が立ち並んでいた。
月光に照らされ、異様な輝きが浮かび上がる。
「……泡影教……!」
老婆の喉から、しわがれた笑い声が漏れた。
「へっへっへ……そうさな。だから、下手に抵抗せんことじゃ。わしらとて、手荒はしたくないでのぉ……」
だが、眼窩の奥に宿る狂気は、言葉とは真逆の意思を語っていた。
黒い陰謀の魔手が、亜子と花奈に迫る――。
【次回予告】
夜の港町を覆う黒紫の瘴気。
開かれた鬼夢は、現実を深海の闇へと沈めていく。
迎え撃つのは――黒き疾風、笠井亮。
そして、悲劇を背負う少女、川合亜子。
亜羊の群れが牙を剥き、
異界の町を舞台に、鋼と肉体が火花を散らす!
次回、第38話「深海に沈んだ町」
――水底に沈む影を討つのは、誰の拳か。
感想やお気に入り登録など、いただけると励みになります!




