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この手が選ぶ夜明け

 柔らかな光の中に姿を現したその男を見て、エリーゼは呼吸を忘れかけた。群青の瞳、よく通った鼻梁、整った顎の輪郭。ゆったりとした足取り、立ち姿に宿る落ち着いた威厳。

 忘れようにも忘れられなかった、あの夜の紳士。

 記憶の中よりも少しだけ遠く見えたのは、彼が日差しの差し込む明るい場所に立っていたせいだろう。

 光に照らされた黒髪は柔らかく波打ち、その色合いは青とも灰ともつかない深い影を帯びていた。淡い光を纏うようなその姿が、現実よりもどこか遠いもののように思えた。

 

 その双眸がエリーゼを真っ直ぐに捉える。あの夜と同じように、何かを測るような、あるいは試すような、けれど決して無礼ではない視線だった。


「思ったよりも早かったな」


 彼はゆっくりと部屋に入り、エリーゼの正面のソファに腰を下ろす。

 自分のいる場所を当然とする者の動きだった。座るその仕草にさえどこか余裕と洗練が滲んでいる。


「しかし、あのドレスはお気に召さなかったと」


 低く、滑らかで、無理に問いただすような圧は一切ない。ただ当然のことを確認するような、穏やかで静かな響き。

 しかしその言葉にエリーゼの喉の奥はわずかに詰まった。一流の品を与えた相手が、それを拒んで見窄(みすぼ)らしい身なりでいる。——それが彼の気分を損ねていないことを、胸の奥で切実に祈った。

 

「とても素敵なドレスでした。ですが、私には、いただく理由が……ありません」


 エリーゼのような下級貴族にとって公爵など、王族と同じように別世界の人間だ。こうして向かい合って言葉を交わすことすら本来は有り得ないことだった。 なるべく平静を装ったつもりだったが、声の端がわずかに震えていた。この場の空気は間違いなく彼を中心に回っている。そう思わせるだけの存在感があった。

 しかし、拒絶の言葉を口にしたのに、彼の表情には失望も怒りも浮かばない。


「受け取りなさい。近いうちに、何度もそういう場に立つことになる」

「……お言葉ですが、それはどういう意味なのでしょうか」

「きみの家の事情は、少し調べさせてもらった。エリーゼ・ベルンハルト嬢」

 

 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥にひやりとしたものが走った。

 公爵の声が続く。亡くなった母の治療費のために借りた金が、今では利子で膨れ上がっていること。父は病に伏せ、家計は傾き、まだ十歳の弟は嫡男としての教育を受けるどころではないこと。

 そして、半年後までに返済ができなければ、貸し主の決めた相手のもとへ身を差し出さなければならないこと。


 そのすべてを、彼は知っていた。

 淡々とした口調で語られるのはただの事実であり、そこに私情らしきものは感じられない。

 驚きとともに、どこかで覚悟していたような気もした。けれど実際に口にされた言葉は、胸の奥に重く沈み、息を詰まらせる。

 

「財産目当ての結婚を狙っていたことも理解している。だが、きみを陥れようとする人間たちの思惑通りに屈する必要はない。借金は私が払おう」


 まるで当たり前のことのように告げられたその一言が、かえって現実味を欠いて感じられた。言葉の意味は理解できたのに、脳がそれを現実として受け止めるのを拒んでいた。

 それは願ってもないことのはずだった。弟の笑顔、父の回復、家の再建——そのすべてが叶うかもしれない。それでも、こんな申し出を無条件で受け入れていいわけがない。理由も、見返りも、何ひとつ提示されていない。

 借金さえ完済できれば、半年後に売られる心配はなくなる。それは事実だった。だがその金を出すのがこの男である以上、ただで済むはずがない。

 公爵家にとって子爵家の負債が取るに足らない額だとしても、それをただの善意で差し出すとは到底考えられなかった。


「……見返りに、何をお求めなのでしょうか」


 声の端がかすかに震えた。けれど、それを指摘する者はいない。返答を待ちながらも、心の奥ではすでに最悪の可能性を想像していた。

 子爵家にはもう財産と呼べるものは残っていない。売れるものはすでに手放した。そんな家に金を出す価値などあるはずがない。では何のために——

 もしかして、結婚を求められるのだろうか。しかしそれは現実味に欠けるように思えた。彼のような人物が、わざわざ没落した子爵家の娘を正妻に迎える理由などない。貴族社会の中で、選べる相手はいくらでもいる。求められるとすれば、もっと別の立場——たとえば、囲う相手として。


 その発想に至った瞬間、腹の奥がきゅっと冷えた。

 例え好ましくない相手であっても、借金を肩代わりしてくれる誰かと結婚する覚悟はあった。その方法しかないからこそ、あの舞踏会に挑んだ。

 けれどそれはあくまで自分の意思で選んだ道の先にあるもの。あの男に売られるとしても、それが足掻いた末に自分で決めたことであれば耐えられるはずだ。

 けれど、今目の前にあるのは違う。公爵の意志ひとつで、すべてが既に決まっているかのように語られる提案。そのなかに、自分の意思が入り込む余地はどこにもない。

 

 けれど、どうせ誰かの物になるなら、あの偏屈で欲望を隠そうともしなかった男より、この人のほうがまだ——そんな思考が浮かんでは、すぐに消える。


「まさか、見返りに私がきみの身体を求めるとでも? そんな人間だと思われるのは心外だな」


 穏やかな声だったが、その言葉には明確な否定があった。あくまで静かに、怒りも憐れみもなく、ただ事実を告げるような声音。

 エリーゼは思わずほっとした息を吐き、すぐにそれを恥じた。

 

「私は、きみが子爵令嬢として社交界に立ち戻れるよう手を貸す。借金の返済はそのための第一歩に過ぎない。子爵家を立て直すには、生活の基盤だけでなく、きみ自身の立場を取り戻さねばならない。そうだろう」


 彼の語る内容は具体的で、言葉の一つひとつが整理されている。

 自分の置かれている状況が、明確に言語化されて突きつけられる。その正確さが痛い。どれも図星で、否定の余地がない。


「借金を完済したところで、子爵家を建て直さなければいずれまた同じように資金が尽きる。父君の療養も、家の維持も、生活も、次第に逼迫していく。そのとき、きみはまた何かを諦め、何かを差し出すのか?」

「……そんなふうに、全部わかっているみたいに言わないでください」


 思わず漏れた声は小さく、それでも抑えた語調のなかに確かな棘があった。

 エリーゼは視線を落とし、唇を引き結ぶ。感情を露わにしても意味がないと自分に言い聞かせるように。

 視界の端で、公爵がわずかに姿勢を変えた。それまで背もたれに寄りかかるように穏やかに座っていたが、ゆっくりと上体を前に傾け、両肘を膝に置くような形で組んだ指先を見つめた。

 その動きに、威圧の色はなかった。それでも、距離が縮まったことで空気が変わったように感じられる。


「……これは一時的な施しではない。きみが社交界で地位を得て、貴族として自立するための支援だ。持っているものを磨き、見せ方を整え、立ち位置を確立する。そのための舞台も整える。それを私は“取引”と呼んでも構わない」


 思わず息を呑んだ。その言葉の裏に潜む真意を探ろうとして、エリーゼは公爵の群青の瞳を見つめた。しかしそこに映るのは、自分自身の姿だけだった。


「それで閣下が得るものは何もないはずです。どうして、そこまでしてくださるのですか?」


 問いの中にはまだ拭えない警戒と疑念が滲んでいる。

 人は見返りなしに何かをすることはない——それが、エリーゼの身に染みついた教訓だった。

 彼は少しだけ間を置き、正面からまっすぐにエリーゼを見つめて答えた。

 

「私が得るものは、きみが理不尽に踏みにじられずに済んだという事実だ。それで、私自身の矜持が保たれる」


 矜持——その一言は、あまりにもあっさりと口にされた。心のどこかが冷えるようだった。人生の岐路だと覚悟して臨んだこの瞬間も、彼にとっては些細な決断のひとつなのかもしれない。

 しかし淡々と紡がれたその声には、奇妙な説得力があった。自分の言葉に疑いを持たず、それが当然であるかのように告げる姿勢が、かえって重く響く。


「そして、きみが得るのは自由だ。借金に縛られることも、誰かの所有物になることもなく、自分の意思で選び、歩いていける立場。私はその初期費用を出すだけだ。——それ以上の見返りは求めない」


 エリーゼにはその考えがほとんど理解できなかった。それでも、これまでの人生で、誰も差し伸べてくれなかった手が、今そこにある。

 取るか取らないか、そう考えれば答えはひとつだった。


「……わかりました、取引としてお受けします」


 そう答えた時、彼の唇がわずかに動いた。微笑んだ——と言っていいのかどうかも迷うほどの変化だった。

 けれど、その一瞬だけ、どこか遠い場所にいた人が少しだけ近くに降りてきたように感じた。


「ローレンツ・アルヘルム・ブランシュタイン。……公爵としてではなく、これからの“取引相手”として覚えておいてくれ」


 この国の貴族なら誰もが知るその家名の重さに、エリーゼはわずかに目を見張った。けれどそれ以上は何も言わず、ただその名を確かに胸の奥に刻み込んだ。


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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
他にも掲載中の作品がありますので、こちらも覗いてくださると嬉しいです!

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