その扉の向こうに
エリーゼはカードを手に、店の前に立っていた。白を基調とした瀟洒な外観。ショーウィンドウには流行の最先端をいく華やかなドレスが並び、細やかな刺繍、繊細なレース、絶妙な色彩のグラデーション——どれもが、ため息が出るほど美しかった。
この国の流行はこの店から生まれると言っても過言ではない。貴族の令嬢たちがこぞって新作を求め、最新の装いを誂える場所。この国の貴婦人なら誰もが憧れる一流のドレスサロン。
そんな場所に自分が足を踏み入れていいのだろうか。躊躇いが胸の中で膨らむも、ここで引き返すわけにはいかない。カードを渡した紳士の手掛かりは、この店にしかないのだから。
エリーゼは深呼吸をして、決意を固めるように重い扉を押した。
店内に足を踏み入れると、温かみのある照明が大理石の床を照らし、品良く整えられた調度品が目に入る。
内装は洗練され、壁に並ぶドレスの一つひとつが芸術品のように見えた。思わず見とれてしまう豪奢さに、心臓の鼓動が早まる。
視線を落とせば、色褪せた普段着のドレスが目に入る。擦り切れた袖口、自分で繕った縫い目、ほつれた刺繍。あの散々だった舞踏会の会場より、今のほうがよっぽど場違いな異物に思えた。肌に触れる布地が急に粗く感じられ、居心地の悪さが背筋を伝って広がる。
——もしかしてあの紳士は「そのドレスはあまりにも酷いから、新しいものを買いなさい」と言いたかったのではないか。
有り得る話だと思った。
けれど、そんなことを言われてもどうしようもない。手持ちの金ではこの店でハンカチの一枚も買えない。
困惑しながら店内を見回していると、奥から妙齢の夫人がゆっくりと歩み寄ってくる。落ち着いた色合いのドレスに身を包み、整えられた髪が上品な雰囲気を醸し出していた。
その佇まいには品格があり、この店の女主人なのだろうかと思わせる風格があった。
何か言わなければならない。けれど、何をどう切り出せばいいのかわからないことにエリーゼはようやく気付いた。
「舞踏会で人助けをするような親切な紳士をご存じありませんか?」——そんな曖昧な言葉でいいのだろうか。
逡巡しながら口を開こうとすると、声を紡ぐその前に、夫人は「まあまあ」と朗らかに微笑んだ。その視線にはどこか理解を示すような温かさがあった。
何も言わぬうちからそんな言葉をかけられ、思わず手元のカードを握りしめる。しかし夫人はさらに嬉しそうに微笑み、促すように手を差し伸べた。
「お待ちしておりましたわ、お嬢様。どうぞ奥のお部屋へ」
まるですべてを理解していたかのような態度だった。エリーゼは言葉を失い、ただその言葉に導かれるままに身体を動かした。
いくつもの扉を通り抜け辿り着いた部屋はあまりにも豪華だった。深い色合いの絨毯が敷かれ、品の良い調度品が並ぶ。自分のような者をもてなすには、あまりにも豪奢な空間。
緊張が強張った背筋を這い上がる。指先が冷たくなるのを感じながら、エリーゼはその場に立ち尽くした。
「……あの」
何かを尋ねようとしたが、エリーゼの言葉を待つことなく夫人は優雅に微笑んだ。その微笑みには穏やかな確信があった。
「あの方は所用で外に出ておりますの。そのあいだに採寸をさせていただいてもよろしいかしら?」
「採寸?」
思わず聞き返した。何の話か理解が追いつかない。
確かにここは仕立て屋なのだから客の採寸くらいするだろう。けれどエリーゼは客になどなり得ようもない没落貴族の令嬢なのだ。
高級店のドレスを仕立てるなど夢のまた夢。夫人の言葉の真意を測りかねて、エリーゼは眉を寄せた。
「ひ、人違いです。私、ドレスを仕立てに来たわけでは——」
戸惑いながら首を振る。その反応に夫人は少し驚いたように眉を上げたが、それも一瞬のことだった。
すぐに穏やかな表情を取り戻し、彼女は落ち着いた声音で言葉を紡いだ。
「いいえ、人違いではないはずよ。でも少し、行き違いがあるようね」
「……どういうことなのでしょうか?」
「あなたに相応しい装いを用意するようにと、私どもは言いつかっておりますのよ」
やっぱり新しいドレスを買えという意味だったのだろうか。エリーゼは慌てて首を横に振った。
この店でドレスを誂えるなんて、それこそ子爵家のタウンハウスを手放さなければいけない。
父の治療費も滞っている今、そんな余裕はどこにもなかった。
「いいえ、私、とてもお支払いなんて……」
「すでに支払いは済んでおります。ご安心なさって。——詳しいことはご本人からお聞きになったほうがよろしいわ」
誰が、何のために? そんな疑問を口にする暇さえ与えず、夫人はにっこりと微笑むと、優雅な仕草で手を叩く。
軽やかな音が部屋に響き渡る。仕立て係らしい女性たちがどこからともなく現れ、あっという間に取り囲まれてドレスを脱がされていく。エリーゼの混乱は頂点に達し、言葉にならない声を上げた。
「待ってください、本当に——」
夫人は微笑みながら、当然のように「さぁ、お好きな色を教えてくださる?」などと言い始めた。そのあまりの自然さに、エリーゼは抵抗する気力さえ失いかけた。
次々と質問を投げかけられる。袖の形はどうするか、どこにリボンを飾り、どんな刺繍を施すか——そのすべてに戸惑いながらも、拒否することもできず、ただ答えるしかなかった。状況に押し流されるように、エリーゼの口から言葉がこぼれていく。
そして採寸を終えた後、仕立て係たちが隣の部屋から持ち込んできたドレスを見て、エリーゼはその精巧な刺繍に思わず目を奪われた。
光を受けて輝く生地、指先で触れたくなるような繊細な模様。見たこともないような美しさだった。
しかしそのドレスが目の前に運ばれ、袖を通すよう声をかけられた時、エリーゼは「違います」と下着姿のまま後ずさった。
困窮する前ですら、こんな上等なドレスは持っていなかった。それを着るということは、何かを約束することになるのではないかという不安が頭をよぎる。
「こちらもお嬢様への贈り物です。どうぞ、お気になさらないで」
「いいえ……いただけません、こんな、高価な……」
「ご辞退なさるのはご自由ですけれど、殿方からの贈り物は素直に受け取るのもまた貴婦人の嗜みですわ」
貴婦人の嗜み? 没落貴族の令嬢に果たしてそんなものがあるのだろうか。かつては自分もそう呼ばれる身分だったが、今は名ばかりの爵位を持つだけの貧しい家の娘に過ぎない。
夫人の言う殿方というのがあの紳士だとしても、理由もわからないまま受け取ることはできなかった。人を安易に信じてはいけないと、エリーゼは身をもって学んだばかりだ。
その頑なな様子を見て夫人はどこか呆れたように息を吐く。そして元着ていたドレスを着せるように仕立て係たちへ命じた。
着替えが終わっても、夫人はエリーゼを帰そうとはしなかった。やや強引とも言える夫人の振る舞いに戸惑いながらも、エリーゼはこの場に留まることを選んだ。
今ここで帰ってしまえば、結局何もわからないままになる。とにかく、あの紳士ときちんと向き合い、お礼を伝えた上で、今の状況について説明を受けなければならない。
「どうぞ、お掛けになって」
夫人に促され、ソファーに腰を下ろす。沈む込むような柔らかさに戸惑っているうちに、目の前に湯気を立てる紅茶が用意される。
豪華な金細工と美しい花模様が施されたそのカップ一脚で、もしかしたら子爵家は何ヶ月か食いつなげるかもしれない。
豊かな香気が鼻腔を満たすたびに、弟と父の顔が浮かんだ。この一杯をふたりに分けてあげられたら、どれだけ喜んでくれるだろう。
きっと、それだけで一日が良いものになる気がする——そんな思いが、胸の奥に静かに灯った。
「公爵閣下がいらっしゃいました」
その一言が、紅茶の香りに沈みかけていた意識を引き戻す。胸の奥で、何かが静かに跳ねた。
——公爵閣下?
夫人が立ち上がる。自然と視線が、その動きの先、扉の方へと向かう。エリーゼもつられるように顔を上げた。
扉が静かに開く。その先に現れたのは、紛れもなく——あの夜、庭園で出会った紳士だった。群青の瞳がまっすぐにこちらを見ている。まるで初めからそこに立っているべきだったかのように、何のためらいもなく。
予感はしていた。けれど実際に姿を見た瞬間、喉の奥にかすかな息が詰まる。まさか、本当に——と、言葉にならない想いが胸をかすめた。