仮面の夜にさよならを。
何も言わない——言えないエリーゼを見て、紳士はさらに言葉を続けた。彼の声は低く、優しく耳朶を打つ。
「無駄というのは、きみの価値がないという意味ではない。きみの価値を見ようともしない連中の中に飛び込んで、何が残る?」
紳士の群青の瞳は、まっすぐ自分を見つめていた。まるで心の内まで見透かされるようでひどく落ち着かなかった。
「この夜がすべてではない。きみが必要とするなら、次の場を用意することもできる」
「……え?」
「何の保証にもならないと思うなら忘れてくれて構わないが、私は嘘は吐かない」
驚いて顔を上げると、紳士は先程と変わらずにこちらを見ていた。夜風は穏やかだった。ゆっくりと差し込む月明かりに照らされたその顔は、どこか厳格で、そして優雅だ。
不躾だとわかっていながら、エリーゼは思わず紳士の姿をまじまじと見てしまった。
年齢は三十歳前後だろうか。彫りの深い顔立ちに、高く通った鼻梁。凛々しく精悍な頰。落ち着いた色合いの衣服は一目で上質なものとわかる。その身なりと佇まいからしても、自分とは比べるまでもない立場の人間なのだろう。
彼を信じていいのか、判断はつかない。けれど今はもう疑う力すら残っていなかった。
どれだけ強がっても心はひどく疲弊していて、ただ静かに差し出された救いの言葉に縋ってしまいそうになる。自分はそんなに弱い人間だったのだろうか。
「……わかりました。今夜は、帰ります」
そう口にすると、喉の奥に何かがつかえたような感覚が残った。悔しさとも情けなさともつかないそれを、エリーゼは吐き出すことも飲み込むこともできず、ただ胸の奥に沈めた。諦めの苦さが舌の上に広がる。
帰ると決めたのに、すぐには動き出せなかった。エリーゼは再び髪へと手を伸ばす。これ以上この惨めな姿を彼の前に晒していたくないというそれだけの理由だった。
乱れた束を指先でまとめ直していると、ぽとりと生花が落ちてくる。宝飾品もすべて売り払ってしまったために、今夜エリーゼの髪を飾っていたのは庭に咲いていた花だった。
擦れて傷んだ花弁がどこか自分と重なるようで、エリーゼはそっと目を逸らした。
髪を整えると、次にエリーゼはそっと背中へ手を回した。着る時は人の手を借りたのだ、自分ひとりでは無理だとはわかっている。それでももう少し伸ばせば届くかもしれないと、諦めきれない。
布擦れの音が響くばかりだった庭園に、ややあって、紳士のため息が落ちた。それは非難ではなく、何か決意を固めたような響きだった。
「……あんなことがあった直後に、あなたが嫌でないのなら、私が手伝おう」
けれど、その瞳に見下す色はなかった。ただ静かに、まるで何かを確かめるようにこちらを見ていた。
エリーゼは逡巡した。自分一人ではドレスを直せない。屋敷の人間に手助けを求めることはできない。このまま帰るわけにはいかない。
それでも、背中を見せることにためらいがなかったわけではない。けれど今は、羞恥よりも先に、どうにかしなければという焦りのほうが勝っていた。
月明かりの下、淡く浮かぶ横顔にそっと視線を送る。からかいの色はない。軽薄さも、下卑た好奇心も——ただ、静けさと節度だけがそこにあった。
それなら、大丈夫だと思いたかった。
「…………お願い、いたします」
紳士が小さく頷き、ゆっくりと背後に回る。静かな庭園に響く足音が妙に多く感じられた。
身を強ばらせないよう意識しながら、背に落ちていた髪を前へ流す。指先に冷えた夜気が触れ、思わずわずかに息を詰めた。広間の熱気とは対照的に、庭の空気は肌にひやりと纏わりつく。
背中にそっと指が触れる。触れられた瞬間、思わず肩がわずかに跳ねたが、紳士の動きは穏やかだった。緩んだ布地を整え、手際よくボタンを留めていく。動作に無駄がなく、まるで慣れているかのような滑らかさだった。
次々と留められるボタンに合わせ、背に沿って布が元の形を取り戻していく。生地の感触がしっかりと身体に馴染み、わずかに漂っていた冷たさが消えていくのを感じた。
最後のボタンに手がかかった瞬間、紳士の動きがふと止まる。
「……ご令嬢、このドレスは——」
低く落ち着いた声が、夜の静寂に溶け込むように響いた。
その声は小さくて、はっきりとは聞こえなかった。けれどエリーゼが聞き返すよりも早く「いや、いい」と静かに言い直され、再び指先が背中に戻る。エリーゼはそれ以上何も言わず、そっと唇を閉じた。
最後ボタンが止められる。
紳士は何も言わず、静かにエリーゼのそばを離れた。ようやく広間へ戻るのかと思ったが、そうではなかったようだ。
ほどなくして戻ってきた彼の手には、どこかへ転がっていた片方の靴が握られていた。履き古した安物であるはずなのに、あの長い指に包まれていると、不思議と品のある一足にすら見えた。
軽く頭が下がり、差し出されるわけでもなく、そのままひざを折って石畳にしゃがむと、滑らかな所作で足元に手を伸ばす。
あまりに自然な所作だった。こんなにも貴族然とした立派な男性が、身を屈めて自分のような娘の靴を履かせてくれるなど、想像すらしたことがなかった。
靴下越しに触れる硬い手の感触に、エリーゼは息を詰めた。
されるがままに片足を差し出してしまったのは、動揺からか、それともこの人にだけは甘えてもいいという弱さが芽生えてしまったのか。
靴を履かせ終えた紳士は何も言わずに、エリーゼが膝に置いたままだった上着を拾い上げ、無言で自分の肩に羽織る。
そしてベンチから立ち上がろうとしたエリーゼに、自然な仕草で手を差し伸べた。
そのまま紳士に促されるまま馬車の前まで来たとき、エリーゼは再び羞恥を覚えた。ずらりと並ぶどの馬車より小さくて貧相な貸し馬車。見栄を張る資金すらもないことなんてもうとっくに知られているはずなのに。
紳士は馬車に乗るにも律儀に手を貸してくれた。扉が閉まる寸前、彼は懐から名刺ほどの大きさのカードを取り出し、手渡してきた。
「いつでもいい。この店に来なさい」その声はあくまで自然で、特別なことをしている様子もなかった。
馬車が動き出し、灯りが遠ざかってから、ようやく手の中のカードを見下ろす。握りしめていたせいで、わずかに縁が丸まっていた。そこで初めて思い出す。ハンカチを返しそびれていたこと、そして——名を、聞きそびれたことも。