望まれぬ夜に咲く
ワルツの調べとともに、冷たい夜気が静かに胸を満たす。エリーゼの耳には、遠くから漏れ出す音楽がまるで別世界の記憶のように届いた。
でも、あの世界に戻らなければならない——それだけが頭の中で反響している。そこしか道はないのだとエリーゼは自分に言い聞かせ続けていた。
「……私はもう大丈夫ですから、どうぞ、お戻りになってください」
あの青年たちも、流石にもうエリーゼに近寄ってくることはないだろう。彼らを追い払う際の紳士の言葉にはそう思わせるだけの、社交界の暗黙のルールを知り尽くした者だけが持つ威厳があった。
だからもう、彼がここに留まる理由はない。助けはもう十分に受けたし、これ以上に惨めな姿を見られたくなかった。
努めて平静を装ったが、声の端がわずかに揺らいでいるのがわかる。温もりを失うことに一瞬の躊躇いはあったが、エリーゼは着せかけられていた上着を脱ぐと、皺が付かないよう丁重にそれを紳士へ差し出した。
しかし、紳士はその場から動くことなく、上着を受け取ろうともしない。群青の瞳はただ静かにこちらを見ている。
「ご令嬢、あなたは?」
その問いは単純だが、エリーゼの心の奥を見透かすような鋭さがあった。
紳士の声には、他の貴族たちには見られない誠実さがあった。それは表面的な礼儀ではなく、何か本質的なものに根差しているようだった。
「私も、もう少ししたら、戻ります」
自分に言い聞かせるようにエリーゼが答えると、紳士が眉を顰めるのがわかる。
彼の表情は微かな変化しか見せなかったが、その一つ一つが意味を持っていた。彼の眉間に刻まれた細い線は、エリーゼの言葉をきちんと受け止め、考えてくれる証のようだった。
「まさか、その格好で戻るわけではあるまい」
静かに告げられた言葉に息を呑む。自身の無惨な姿を意識させられ、咄嗟に目を逸らした。エリーゼは受け取ってもらえない上着を膝に下ろすと、そっと髪に触れた。確かに乱れているが、それでも直せないことはない。幸いなことに唯一のドレスも、汚れたり破れたりはしていなかった。
ここで泣き帰るのは簡単だ。けれど、それはこの先に待つ運命を受け入れることと同義だった。借金が返せなければ、待っているのは愛人としての生活。そこに拒否権などない。先程のような行為も当然のように受け入れなければならないのだろう。その未来を想像するだけで身体の芯から冷えていくようだった。
それを思えば、笑い者にされる程度のこと、耐えられるはずだ。小さな懊悩が胸の奥で渦を巻く。
「でも、まだ帰るわけにはいきませんから」
自分でも驚くほど固い声だった。エリーゼは無意識にドレスを握りしめる。
何の成果も得られないまま帰ることはできない。
珍しく着飾った姿を綺麗だと喜んでくれた弟の笑顔が蘇る。伏せったままの父の痛々しい横顔が浮かぶ。
二人に、少しでも良い報告がしたい。エリーゼが守りたいものは自分の身体だけではないのだ。家族の未来が、この夜にかかっている。
紳士は何も言わず、ただ静かにこちらを見ていた。立ち去る気配はない。その場に根を下ろしたように動かず、群青の瞳が淡く月光を映している。その姿は庭園の木々よりも静かに、しかし確かな存在感を放っていた。
あの瞳に自分の姿もまた映っているのだと思うと耐えられなかった。先程の屈辱とは違う、また別の羞恥心が胸を刺す。
「……今夜はもう帰りなさい」
低く落とされた声に、背筋が微かに揺れる。その声に突き放すような冷たさはなく、むしろエリーゼへの気遣いが滲んでいる。その優しさが胸に沁みて、思わず涙が出そうになった。
けれど、エリーゼは言葉よりも早く首を左右に振る。自分がどれほどの決意でこの夜に飛び込んだのか。晒し者にされて、弄ばれそうになって、それでもまだ舞台に戻ろうとする理由を。きっと彼には理解できないし、説明するつもりもない。
「……帰りません」
「なぜ」
絞り出すような声に対し、紳士の問いかけは穏やかだった。詰問でも咎めでもない。ただ理由を問われただけ。それなのに、喉が詰まりそうになる。
「……今夜を逃したら、もう二度と——」
それだけが、どうにか発せられた言葉だった。音のない悲鳴のように喉の奥が震え、声がかすれる。言い切ればすべてが崩れてしまいそうだった。
下を向いたら再び涙が落ちる気がして、エリーゼは遠い広間の光を見つめることに集中した。例え呼ばれていなくても、エリーゼはその場所へ行くつもりでいる。この夜は絶望を希望に変える、最後の賭けだったから。
「戻っても無駄だ。何が望みか知らないが、戻ったところできみが欲しいものは手に入らないだろう」
決して責めるような声ではなかった。ただ、現実を知る者としての冷静な諭し。その言葉に込められた真実が痛いほどに響く。
それでもエリーゼは広間に戻る必要があった。そこで、没落した子爵家の娘と結婚して借金を完済してくれる男性を見つけなければならない。
そんな奇特な人間がいないとしても、今のエリーゼには、そのわずかな希望に縋る道しか残されていなかった——たとえそれが、夜の闇に浮かぶ蜃気楼のような幻であったとしても。