光の中に立つために
呻くような沈黙の中、夜気を裂くように靴音が近付いてくる。硬い石畳を踏みしめる重い響き。その主がただの通行人ではないと願うばかりだった。
冷たい夜風が肌を撫で、震えが背筋を駆け上がる。抑えつけられていた身体の上から、男たちの動きがわずかに硬直するのが伝わる。肩を押さえていた手の力が微かに緩んだ。
「合意の上なら私の出る幕ではないが——そうは見えないな」
静かに放たれた声は低く落ち着いていた。しかしその奥に潜む怒りの気配は、冷たい夜の闇でさえ隠しきれていない。
男たちがわずかに身じろぎするのを、肌で感じる。重圧が薄れた分、逆に恐れが広がった。彼らはきっと今、来訪者を値踏みしている。冷ややかな視線が交わされるのを見えずとも悟った。
「今夜限りで社交界から追放されたくないのなら、早く失せるといい」
鋭くも淡々とした警告が落とされる。その言葉には力があった。社交界から追放する——本当にそうすることが可能だと思えるほどに。
腕を押さえつけられていた圧力が、ゆっくりと抜けていく。指の跡が肌に残り、痛みが徐々に意識の表面へ浮かび上がる。
「いや、俺たちはただ——」
反論しかけた青年の声は夜に溶けるように消えていく。何も見えないのに、たったそれだけで場の支配権が完全に奪われたと理解できる。彼らは迷ったように息を飲み、互いに視線を交わしあった気配があった。
やがて諦めたような低い舌打ちが落ちる。悔しげな息遣いを残しながら、男たちはひとり、またひとりと身体を引いた。遠ざかる足音。それはばらばらと夜の闇へと消えていく。
拘束が解かれても、身体に残る指の感触が肌に焼き付いたまま、エリーゼは微動だにできずにいた。冷たい空気が焼けつく喉を潤すはずもなく、指先まで凍えるような感覚が広がる。
やがて緩慢な動きで身体を起こし、冷たいベンチに座り直す。冬でもないのに剥き出しの肩は冷えていた。心臓は激しく脈打ち、その鼓動が耳に響く。
ふと、肩に温かな重みが落ちる。驚いて指先を添えれば、それが紳士の上着だとわかる。しっとりとした高級な生地が薄いドレス越しに肌を覆い、冷えた身体にわずかな安堵をもたらす。
思わず顔を上げると、間近で紳士の瞳と視線が触れ合った。月の光を受けて淡く輝く群青の瞳は、底知れぬ静けさを湛えている。感情の読めない深い色合いに、胸の奥がざわつく。
「ご令嬢、侍女は連れてきているか?」
本来なら付き人の一人や二人は連れてくるものだろう。しかし給金も満足に払えない子爵家にはもう最低限の使用人しかおらず、父の看病や弟の世話を考えるとここへ伴う人手はなかった。
言葉を選ぶ余裕もなくエリーゼが首を横に振ると、紳士はわずかに眉を寄せた。その表情には非難ではなく、理解のようなものが垣間見えた気がした。
「では屋敷の侍女を呼ぼう」
真っ当な提案だった。それでも、これ以上の屈辱を受けたくはなかった。屋敷の人間を呼べばこの話は主人へ、そして伯爵夫人へと伝わる。
今夜の出来事を知れば、彼女はどれほど愉快そうに笑うだろうか。その光景を想像するだけで胸が痛んだ。
「……結構です。きっとまた、笑い者になるだけですから」
震えを抑えながら口にした言葉は、確信だった。
困窮するにつれ社交からは遠ざかり、友人たちとの距離は開く一方だった。もう対等な立場ではない。エリーゼは施しを受ける側の人間で、友人はその対価としてエリーゼを晒し者にし、ささやかな余興を楽しんだ。それだけのこと。真の友情など、没落した身の上で期待するべきではなかったのだ。
それでも、頼らなければならなかった。最後の望みを繋ぐために。——なのに、結果はこれだ。
震える唇を噛み締めた。余興にされ、弄ばれそうになり——結局、自分にはもうその程度の価値しかないのだと突きつけられた気がする。その現実が、ひどく惨めだった。
込み上げるものを押し込めようとするが、目頭がじんと熱くなる。耐えようと瞬きをするものの、堪えきれず、落ちた熱い雫が頬を伝う。
その時、目の前に白いハンカチが差し出された。ためらいながらもそっと受け取る。指先に触れた布地は滑らかで、繊細な刺繍が施されていた。ただの手慰みで渡すには上等すぎるものだった。
「伯爵夫人が、あれほど底意地の悪い人間だとは知らなかった。嫌な思いをしたね」
淡々とした口調だった。けれど、そこに嘲笑や同情の色はなかった。
慰めではなく、ただ事実を述べるようなその物言いが今はほんの少しだけ心を軽くする。胸の奥に詰まっていた何かが、少しだけほどけた気がした。
どこからともなく、広間からワルツが流れてくる。ダンスが始まったらしい。
あの煌びやかな世界で、人々が笑い、踊っている。ここにはただ、暗闇と静寂があるだけ。
エリーゼは震える指で上着を握りしめ、そっと息を吸った。涙はすでに乾きつつあったが、胸にわだかまる苦い感情は消えない。
それでも、まだ終わりではない。そう自分に言い聞かせるように、エリーゼは遠く揺らめく光を見つめた。