名もなき花の夜
エリーゼは気丈に顔を上げ、一歩前へ踏み出す。誰かと会話を交わせば、何かが変わるかもしれない。何も失うものはない。そう信じて、近くにいた青年に目を向けた。
グラスを片手にした彼は礼儀正しく会釈をする。エリーゼは小さく微笑み、勇気を振り絞ってその青年に話しかけた。手のひらに汗が滲むのを感じながら。
彼はにこやかに自己紹介を求め、エリーゼの心は僅かに明るくなる。
けれど——それだけだった。
名前を告げると、青年の目に一瞬の驚きが浮かび、「ああ」と納得したような、少し気の毒そうな表情が浮かんだ。
その瞬間、エリーゼは自分の家名が持つ重みを再認識した。もはやそれは誇りではなく、重荷となっていた。
「それでは」と彼は簡単な会釈を残し、少し離れたところの紳士たちの輪へと戻っていく。その背中を見送りながら、きっとあの中で話しているのだろうと想像した。
——『あぁ、あの没落子爵家の娘か』
——『借金で首が回らないらしいぞ』
噂はもうエリーゼの知らないところで既に広まっていたのかもしれない。
それから何人かに話しかけようとしても、誰もが困ったような顔をして、あるいは眉を顰めて、足早に去っていく。
同じ年頃の令嬢たちは扇の影から面白いものでも見るような眼差しを向けてくる。赤一色に彩られた空間でエリーゼは間違いなく悪目立ちしていた。
やがて楽団の奏でる華やかな曲が始まる。けれど、誰もエリーゼに手を差し伸べてはこなかった。遠巻きに視線を向ける者はいても、近寄る者はいない。
男性たちの足は誰一人として自分の方へは向かわず、代わりに鮮やかな赤のドレスを纏った令嬢たちの元へと急ぎ、軽やかに回る舞踏会の輪の中へと消えていく。
ここに来れば、何かが変わるかもしれないと信じた自分が浅はかだった。エリーゼは一人、その現実と向き合っていた。結局、貴族社会とはそういうものだったのだ。
没落した家の娘には、かつての輝きは何一つ残されていなかった。自分のの中で徐々に諦めが染み込んでいくのを感じた。
居場所をなくしたまま、エリーゼは壁際へと足を向けた。そこに立つことを自ら選んだのではない。ただ、それ以外にすることがなかった。
母から譲り受けた青いドレスのスカートが足元で静かに揺れた。この部屋のどこかに運命を変えるかもしれない誰かがいるのだろうか。それとも、もう道は一つしか残されていないのだろうか。
誰も話しかけてはこなかった。けれど、まるで観察するような視線がどこかから注がれているのを感じる。
エリーゼは視線を落とし、小さく息をついた。この夜の終わりに帰る場所はあっても、未来への道筋は見えない。
窓の外に広がる夜空を見上げると、星々が冷たく輝いていた。孤独と共に静かに次の一手を考え始めたエリーゼはふと、ゆっくりと歩み寄ってくる気配に気付いた。
視線を上げれば、広間の向こうでひとりの青年と目が合った。ブロンドの髪に青い瞳に、端正な顔立ち。年齢はエリーゼよりいくつか上のようだ。
「こんなに美しい方が、ずっとここにいらっしゃるなんて」
穏やかに声をかけられる。表情に敵意はない。壁際に立つ令嬢へ気を遣ったのか、それともただの社交辞令か。いずれにせよ、何もないよりは良い。少しだけ唇を持ち上げ、エリーゼはわずかに会釈を返した。
ようやくまともな話し相手を得られたことに安堵しながら、青年との会話を楽しむ。彼はエリーゼの家名を聞いても眉を顰めることはしなかった。
「ここは少し騒がしくて……よければ向こうで話しませんか?」
示された先は、広間の隅にある扉の向こう。そこは庭園へと続く回廊だった。




