ただひとつの青
今夜のドレスコードは赤だった。
広間を埋め尽くす貴婦人たちの衣装はどれも深紅やワインレッド、柔らかなローズの色合いをまとい、燃え上がる炎のような華やかさで会場を彩っていた。
男性たちの装いにも赤のアクセントが添えられ、ポケットチーフや襟元に小さな赤い花が揺れている。
けれどその事実を知ったのは、エリーゼが会場に足を踏み入れ、シャンデリアの光が視界を満たした瞬間だった。
自分の身にまとうのはただ一着しかなかった母の形見のドレス。幾度も繕い、愛情をこめて手入れしてきた青い絹の記憶。エリーゼの細い指が、緊張と不安からドレスの縁を無意識に摘んでいた。
落ち着いた青のベルベットはかつての華やかさを今もわずかに残していたが、この赤に染まる世界では、まるで深い湖に沈んでいくかのように孤独に、場違いな異邦人のように浮いて見えた。
「まあ、なんて場違いなこと」
誰の声だろう、貴婦人の甲高い声に周囲の視線が一斉にこちらへ向けられた。水面に落ちた一滴の雫のように、波紋が広がっていく。
すぐに逸らされる冷淡な視線、興味を持ったように値踏みするような鋭い目。最も辛かったのは、あからさまに薄笑いを浮かべる蔑みの表情だった。
その中に、招待状をくれた友人の姿を見つけた。ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのを見て、エリーゼの胸に一瞬の希望が灯った。
かつて一緒に人形遊びをし、お互いの秘密を打ち明けた親友。深紅のドレスを身に纏い、髪や胸元を豪奢な宝石で飾るその姿は伯爵夫人そのもので、そこにかつて共に遊んだ少女の面影はどこにもなかった。
「ベルンハルト子爵令嬢……新しいドレスを用意できなかったのね。それなら、無理に来ていただかなくても良かったのに」
小さく息をつくような、心底呆れたような声音。エリーゼの耳にはその言葉の裏にある残酷な意図が痛いほど明確に響いた。
その言葉に周囲の貴族たちがくすくすと笑う音が容赦無く耳に刺さる。誰もが愉快な余興でも眺めるように、哀れな生き物を見るかのように、こちらを見ていた。上品に扇子で口元を隠す婦人たち、グラスを傾けながら目を細める紳士たち。
夜会には青いドレスを着ていくと確かに伝えていた。何かの手違いであればいいと、それまでエリーゼは自分に言い聞かせていた。でも青いドレスを着た自分を見るその眼差しが示すものは明らかだった。
かつての親友の裏切りは、借金返済の脅しよりも深くエリーゼの心を酷く抉った。
けれど、事前にドレスコードを知っていたとして、新しいドレスを用意できたかと考えれば、それは到底無理なことだったのかもしれない。
悔しさが喉を塞ぎ、言葉が出なかった。惨めだと感じる暇もなく、ただ足元の大理石の床が少し遠くなったような、ふわりと浮いているような感覚があった。両頬が熱く火照り、耳元で血の鼓動が大きく響くのを感じる。
けれど、ここで引き返すわけにはいかなかった。これは最後の機会なのだから——エリーゼは母の教えを思い出し、背筋を伸ばした。